見 

                                      平成15年12月16日

司法制度改革推進本部事務局 御中

                                裁判員制度に反対する会
                                     大久保  太郎(元東京高等裁判所判事)

                                     田村  四郎(前拓殖大学総長)

                                     高    勝彦(弁護士)

                                     長谷川  三千子(埼玉大学教授)

  

貴事務局が募集している裁判員制度に関する意見を別紙のとおり提出する。

                                 裁判員制度に反対する会事務局

                                 東京都千代田区平河町2丁目16−5−302
                                 高池法律事務所気付

 われわれは、年齢、職業等の相違はあっても、裁判員制度の立法化を深く憂慮し、これに強く反対する点で意見を同じくするものであり、先般意見を同じくする他の者らとともに「裁判員制度に反対する会」を発足させたものであって、同会を代表して意見を述べるものである。

 なお、今回発表された「考えられる裁判員制度の概要について」及びその「説明」を以下それぞれ「概要」「説明」と略称する。


第1 憲法違反の問題

 われわれは、まず、裁判員制度案(以下、裁判員制と略称する。)には、制度自体について以下の憲法違反のあることを指摘しなければならない(その余の点における憲法違反については後述する)。

 (1)制度そのものの違憲性

 「概要」には「裁判員及び補充裁判員は、独立してその職権を行い、憲法及び法律にのみ拘束されるものとする。」とあり、「概要」によれば、裁判員は裁判官と同等の裁判の評決権を持つ。裁判員は、名は裁判員であつても実質は裁判官である。

 しかし、憲法、特に「第六章司法」を一読して明らかなように、憲法は司法権の担い手としては裁判官のみを予想しており、陪審制、参審制のような一般国民の関与は全く予想していないと認められる。憲法は、このようなものとしての裁判官についてその独立(76条3項)、身分の保障(78条)、任命等(79条、80条)の厳格な規定を置いているのである。国民の中からくじで選んだ者を拉し来たってこれを裁判員と名づけ、裁判官と同等の権限を与えて裁判に参加させることなど、全く憲法の予想しないところというべきであり、まさに白昼堂々たる憲法違反だといわざるを得ない。

 なお、旧憲法に根拠を持たない旧陪審法においては、陪審の答申は裁判官に対し拘束力を有しないこと、また被告人は陪審を辞退し得ることとされていたのが想起されるべきである。

 (2)公正な裁判手続でないことの違憲性

 裁判員制度を設ける理由として、「裁判に国民の意見を反映させるため」などということがいわれているが、くじで選ばれた数名の者の意見が「国民大多数の意見」だとか、「国民を代表する意見」だとかいい得るものでないことは明らかであり、単に「素人数名の各意見」であるに過ぎない。慎重の上にも慎重を期さなければならない裁判に、憲法に規定もないのにこのような素人を参加させ、しかも裁判官と同等の権限を持たせることは、憲法が被告人に保障している公正な裁判手続に明らかに違反するものである(本問題の場合、憲法37条1項の「公平な裁判所」の要請に違反すると考えられるが、もしそうでなくても憲法31条の適正手続の保障に違反するであろう)。

 (3)国民に対する義務づけの違憲性

 「概要」によれば、くじに当たった国民は、裁判員候補者として質問手続期日に出頭する義務を負い、さらに裁判員に選ばれた者は、公判期日に出頭し、宣誓をし、審理に立ち会い、評議において意見を述べる等の義務を負うとされている。

 しかし、憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と規定している。この規定は、自由社会の繁栄の基礎を成すものとして極めて重要なものである。@裁判員制は憲法に基づく制度でないこと、Aそれぞれ自己の目的をもって忙しく活動している国民にとって裁判員の義務は極めて重いものであること(「概要」は、裁判員候補者に電話による質問期日への出頭拒否、また質問期日における裁判員候補者の裁判員への就任拒否を認めるものではないであろう。)等を考えれば、法律によって裁判員制なるものを作り、「公共の福祉」だとして、網羅的に国民に対し上記のような義務づけをすることは、あまりにも国民の自由権の保障を軽視するものである。すなわち、裁判員制は、憲法第13条に違反するものといわなければならない。

 以上のとおり、われわれは、以上の3点における憲法違反を指摘するものであるが、当局において以上のような憲法問題についてこれを合憲だとする説明が全くないのはどういうことであろうか。憲法軽視のそしりを免れないのではなかろうか。

 

第2 裁判員の負担の問題

 裁判員制は、重大事件を対象事件としている(「概要」1(4)ア)。ところで、わが国の刑事訴訟事件の中には一部ではあるが、審理期間にして数か月どころか、1年を超えて数年にわたり、公判回数にして十数回どころか、数十回、さらには時には百回を超える事件が見られるのであり、その多くは重大事件である。このように審理が長期化するのは、裁判所及び当事者(弁護人を含む。)の責任にのみ帰せられるべきではなくて、わが現行刑事訴訟法の特異な性格(大陸法と英米法の折衷法)にも大きな原因があり、従って、現行刑事訴訟法の基本構造を維持する限り、いくら訴訟促進策(立法を含む。)を講じても、促進の程度にはおのずから限度があり、参審制の行われている独仏、陪審制の行われている英米の刑事訴訟と同程度まで促進することは不可能なことである。現に司法制度改革推進本部が提案して成立した「裁判の迅速化に関する法律」が迅速の目標期間として「2年内」という欧米ではにわかに考えられないような長期間を定めたのも、以上のことを無視し得ないからだと考えられる。

 われわれは、国民各自がそれぞれ自己の目的を持って忙しく活動している現代社会において、裁判員として公判出頭の義務を負わせ得る限度は、1日でなければせいぜい数日(数回)が限度であり、数か月、10回以上などというのは国民一般の予期もしていないところで、いわんやそれ以上、さらには1年前後とか2年前後、数十回などというのは全く論外のことだと考えるものである(注)。要するに、今後訴訟の迅速化の努力が行われたとしても、裁判員に対し負担を義務づけ得ると考えられる程度を超えた事件が相当数存在することは否定することができず、この点においても裁判員制の立法化は無理だといわなければならないのである。

(注)産経新聞平成15年9月25日号の裁判員制に関する記事「国民の名において」の中に、「『三日』は『市民の裁判員制度つくろう会』(中略)のアンケート調査で、半数近い人が参加可能な日数として挙げた数字だ。『三日』を含め、『一週間以内』を挙げたのは七割以上を占め、『二週間以内』と答えたのは、わずか3%だった。プロが予想する以上に、素人である国民は出頭に負担を感じていることが見て取れる。」とある。

 なお、当局は一体以上の点をどう考えているのか。裁判員制の提案を聞かされた国民が一番関心を持つことの一つは、裁判員として負わされる義務の程度であろう。そうであるから、当局は予測される負担の程度について真っ先に説明すべきであろう。それが提案者として当然の誠実さというものではなかろうか。

 ところが、当局からこの点の説明は全く聞かされていない。思うに、説明し始めれば、期間にして数か月以上、公判回数にして十数回以上を要する事件のあることを語らざるを得ず、そうなれば、国民の反発を招くとともに、裁判員の確保が困難であることを自認するほかないからだと思われる。国民に対し正直でなく、国民をごまかしているといわざるを得ないのではないか。ここまでして裁判員制を提案するのかと、情なく思うのはわれわれだけであろうか。当局は、国民に対し、裁判員に選ばれた場合に覚悟しなければならない負担の程度(公判の期間と回数)の予測(最小は1日、1回であろうが、最大はどのくらいになるか等)をいつわりなく明瞭に語らなければならない。

第3 裁判員候補者及び裁判員の義務履行の問題

  「概要」によれば、裁判員候補者は裁判員選任のための質問手続期日への出頭義務を負い、裁判員は公判期日への出頭義務その他の義務を負うとされている。しかし、国民各自が忙しく活動している現代大衆社会において、国民に、このような義務を公平に履行させることができるであろうか。

 たとえば、或る事件について甲、乙、丙の三名が裁判員候補者の中に加わったとする。甲は別に定職もない者であるが、質問手続期日への召喚状を受けたもののこれを無視し、取り合わず、同期日に出頭しなかった。甲は後日過料の制裁を受けるか。まず受けることはないであろう(裁判官は多忙だから不出頭者につき一々制裁手続を開始し得ないであろう。かりに開始し、甲に対し呼出しをしても、甲がこれも無視すればそれまでであろう)。

 乙と丙は質問手続期日に出頭したが、それぞれ「やむを得ない事由」があるとして辞退の許可を求めたところ、裁判官はいずれも「やむを得ない事由」には当たらないとして許可しない方針を示した。乙は気は進まなかったが、気が弱く、口下手であったため、裁判員に選ばれるのを拒めなかった。丙は気が強く、口上手で裁判官の方針にどこまでも抵抗したために、裁判官もこのような者を裁判員に選任するのは適当でないと考え、方針を変えて辞退を認めた。

 以上の甲、乙、丙を見れば不公平があるのは明らかであろう。そのほか、不公平の生じる事態を考えれば、きりがないであろう。要するに「正直者が馬鹿を見る」ということである。

 われわれは、憲法に基づかない裁判員制度なるものを作って国民に義務を課しても、その公平な履行を期することなど現代社会ではとても無理であり、このような状況では裁判員制は国民の間に安定した基盤を獲得することはできないと考え、この点でも裁判員制に反対するものである。

 当局は一体以上のような点についてどう考えているのであろうか。「くじに基づいている以上、出て来た人が裁判員になればそれでいいのだ、あまりやかましくいうことはない」とでも考えているのであろうか。もしそうだとすれば、あまりにも投げ遣りではないであろうか。


第4 訴訟迅速化の他面の弊害 

 「裁判員制を採用すれば、訴訟は迅速化される」といわれる。現に司法制度改革推進本部の当局者も、平成15年11月16日の政府広報放送(民放テレビ)の中でこの趣旨のことを裁判員制の利点の一つだとして語っている。

 しかし、何のことはない、この考えは裁判員を人質にして訴訟の迅速化を図ろうというもので、考え自体大きな誤りではなかろうか。訴訟は、裁判員制対象事件であろうがなかろが、迅速化されなければならないし、迅速化できると考えられる。われわれは、過般成立した裁判の迅速化に関する法律を迅速化のために非常に効果があるものと評価している。

 上記の考えが大きな誤りだということの理由の一つは、裁判員制対象事件だとして、審理すべき事案の内容や事件の量に比較して、審理日時の迅速化がバランスを失して強調されると、他面に大きな弊害が生じて来るからである。

 いわゆる地下鉄サリン事件において、訴訟促進のために被害が傷害にとどまった部分が公訴事実から撤回され、被害者は非常に口惜しい思いをしたと報ぜられたが、これに似たこと、さらにはもっと深刻なことが生じ得るのである。このような場合を詳論することはいささか煩雑にわたるので避けるが、後述の事件の分離審理の違法性もその一つの場面である。

 この場合に重要なことは、このような、審理が十分にできないことのしわ寄せは、検察官すなわち社会公共の側が負担しなければらないということである。審理不十分のつけを被告人にまわすことはできない。被害者を含む社会公共の側が或る事件について納得すべき裁判を受けられないまま事件について幕を下ろされるのを見なければならないのである。

 いいかえれば、現行の職業裁判官制であればまず起こらないことが、裁判員制を採つたため審理時間を急がされることにより生じる弊害である。「角を矯めて牛を殺す」とはこういうことをいうのではなかろうか。こういうような点までよく考えられないまま安易に「裁判員制になれば裁判は速くなる」という言葉によって裁判員制の導入が説かれるのは、一国の司法にとってまことに恐ろしいことである。われわれは、この点からも裁判員制に反対せざるを得ないのである。


第5 訴訟手続における違法違憲の問題

 わが現行刑事訴訟法は、一般国民の訴訟参加を予想していないと考えられ、従って、裁判員制のような裁判官でないのに裁判官と同等の権限を持った者の参加を認めようとすると、どうしても現行法との抵触を避けることができないのである。その部面は多くあろうが、以下特に2点について違法違憲の問題が生じることを指摘しなければならない。

 (1)事件の分離審判の問題

 被告人が数個の事件により別々に起訴されている場合には、現在の実務では、特段の事情のない限り、併合して審理され、判決では刑法の併合罪の規定の適用を受けて一つの刑が宣告される処理方法が当然のこととして定着している。併合されずに分離審判を受けるとそれぞれ刑が宣告され、被告人に不利となるからである。併合審判は被告人の権利であるといってよい。

 ところが、裁判員制を導入し、併合審判では裁判員の負担が重くなるからとして、分離審判を認めるのは、明らかに被告人の上記権利を侵害することになる。「概要」は、分離審判を認めることを前提として「刑の調整のための制度」を設けて対処しようとしているようであるが(4())、「説明」もみずから認めているように、このような制度を設けることは困難であり、所詮糊塗策に過ぎない。被告人の立場からすれば、憲法に基づく制度でもなく、自分が望んでもいない裁判員制の適用を受けて二つの刑を宣告されるのは不合理であり、納得できないということになる。裁判員制対象事件だからとして当然に分離審判をを認めるのは、違法であるとしなければならない。

 なお、この分離審判は、被告人の立場からばかりでなく、社会公共の立場からも問題である。端的な例を挙げれば、被告人が二件以上の殺人罪で別々に起訴された場合、併合審理されれば当然に極刑が相当であるのに、分離審理されれば一つは有期刑、一つは無期刑というようになりかねないからである。このような場合をどう考えるのであろうか。

 (2)審理途中における裁判員の交代の問題

 刑事訴訟法は、審理の途中で裁判官が病気その他の理由で欠けた場合に、裁判官が交代して審理を引き継ぐことを認めている(315条)。これは、裁判官は、訴訟記録を精読することによって従来の公判の結果について心証を形成することができるからである。

 これに対し、裁判員は、素人であるから、記録を読んで心証を形成することはまずできないことである。従って審理の途中で何らかの理由で裁判員が欠けるに至ったときは、裁判員の交代などを認めることはできず、その訴訟は、その段階で終りとしなければならないと考えられる(注)。

(注)この場合、訴訟を始めから新しくやり直すことを許すか、又はこれを許すのは憲法に基づかない裁判員制のために迅速な裁判を受ける被告人の憲法上の権利を侵害することになるから公訴棄却の裁判をすべきであるとするかは、別の問題である。

 ところが、「概要」は、裁判員の交代を認めるばかりでなく、「その手続きの在り方については、新たに加わる裁判員が事件の争点を理解し、それまでの証拠調べの結果について実質的な心証をとることができるような、負担の少ない方法を検討し、必要な措置を講ずるものとする。」としている(4())。

 しかし、このようなことを許すのは、明らかに裁判の根本的な原理に違反するものである。裁判員は、いうまでもなく合議体の一員である。合議体が裁判に当たる場合には、合議体の構成員各自が直接証拠及び当事者の意見に接してみずからそれぞれ心証を形成しなければならない。これが原理である。「概要」にいう「負担の少ない方法」とは何をいうのか分からないが、「概要」の考えは、みずから証拠に接していない者に、接したように外見を装わせて、判断者の地位を与えるものである。このようなことは、刑事訴訟法の上記原理に違反して違法であるとともに、憲法31条が被告人に保障している「適正手続」にも明白に違反するものといわなければならない(裁判手続上これほど明白な適正手続違反の事態を他に考えることは困難であるほどである)。

 また、「概要」の考えは、実際上も行い得るものではない。たとえば、或る事件について被告人が無罪を主張し、証拠調の結果についても、裁判官及び裁判員の間でそれぞれ有罪無罪の心証が分かれているような難しい事件に関し、新裁判員にどのようにして旧裁判員の地位を引き継がせることができるというのであろうか。新裁判員候補者も事情を聞かされれば当然就任を拒むであろう。また、裁判官もかかる引継ぎの適法性に当然疑問を持つことであろう。「概要」の考えは、あるいは「そんなやかましいことをいわずに、あまりうるさくない裁判員候補者を見つけて、うまく言いくるめて裁判員に選任すればよいのだ」とでもいうのであろうか。そうしておいて、その裁判員に「有罪か無罪か。(有罪の場合)刑はどうか。意見を言ってくれ」というのであろうか。恐ろしいことである。裁判員の途中交代を認める規定などとても許されるものではない(参審制を採るドイツ法では、裁判官も参審員も途中交代は許されず、手続を始めからやり直さなければならない)。

 この問題について「説明」には何の触れるところがない。恐らく説明ができないからであろう。それにもかかわらず「概要」がこの裁判員交代を認める定めを置こうとするのは、わが国の刑事訴訟には多少とも長期にわたるものがあることを避け得ず、裁判員が審理の途中で欠けることも予想しなければならず、欠けた場合に交代を認めないと訴訟が続行できなくなるからであろう。しかし、審理の途中で裁判員が欠けることを予想しなければならないような長期事件については、もともと裁判員制などは無理なのである。強いてそれに適応させようとして違法違憲を犯してまでも定めを設けようとするのを見ると、ここまでして裁判員制を遮二無二推し進めるのかと、空恐ろしいものを覚えざるを得ない。

第6 笛吹けども踊らず(国民的基盤の欠如) 

 今や当局は、裁判員制を法案化し、国会に提出するというのである。しかし、肝心の国民はどうかというと、裁判員制なるもののあらまし、特に義務づけられる負担の程度などについてほとんど全く聞かされておらず、この制度に対する関心も、極めて一部にとどまり、ほとんど皆無だといっても必ずしも誤りではないのである。当局は、法律成立後実施までに数年の準備期間を置き、その間に大いにPRにつとめて国民の関心を盛り上げたいというのであろうが、国民各自がそれぞれ自己の目的のために忙しく活動している現代大衆社会において政府のPRで関心を盛り上げ、裁判員としての奉仕の精神を造成することなど、とてもできることではない。笛吹けども踊らずという状況がいつまでも続くということである。

 

第7 莫大な国費の愚かな支出 

 裁判員制を実現するとなると、その準備(法廷を含む裁判所庁舎の増改築、職員の増員等)及びその運営(裁判員候補者名簿の作成、裁判員と補充裁判員に対する日当・交通費・宿泊費等)のために莫大な国費を要する。しかし、既述の検討において明らかにしたように、裁判員制なるものは、違憲であるばかりでなく、極めてあやふやな、確実に成功する見込みのない制度であり、これに莫大な国費を支出することは、国庫財政が厳しい現状を考えるまでもなく(たとい国庫が健全な状況にあっても)、甚だ愚かなことであろう。法律成立後実施までの期間に国民の関心が盛り上がらなければ、裁判所の増改築など全くの無駄であったとなることも考えなければならない。

 

第8 刑事訴訟の改善

国民の間には、刑事訴訟の現状について、

 @ 一部事件の審理の異常な長期化、

 A 事実の認定において首をかしげるような判決が時折見られること、

 B 全般的に刑が軽過ぎ、被害者への顧慮が十分でないのではないかと思われること、

等の疑問や不満があることは、認めなければならない。しかし、裁判員制が導入されれば、これらの問題が一掃されると考えられるべきではない。

 すなわち、@については裁判の迅速化に関する法律自体大きな効果があると考えられるが、さらに刑事訴訟法及び規則の所要の改正が行われることによって対処されるべきものである。

 A及びBについては、当該の事件ごとに検察官の労を惜しまない上訴によって是正が図られるべきものである(わが刑事訴訟法上の上訴制度は、世界的に見ても比類がないほど丁重である)。

 

第9 裁判員制は断念され、国民参加は構想を新たにすべきである

  裁判員制については、以上に述べたほか、疑問点はほとんど尽きることがないのであるが、あまりに長くなるので、指摘は以上にとどめることにする。

 ところで、およそ或る法律制度の立法は、その制度が確実に順調に実施され得るとの見通しがあって初めて行われるものではなかろうか。まして裁判員制は、国の治安と秩序に関わる重大事件を対象とし、被告人の憲法上の権利と一般国民の自由権に関わるものであるから、上記見通しも確実の上にも確実でなければならないものである。

 一方、わが国の戦後の歴史が示しているように、わが国社会には次々と重要、複雑、時には大規模な事件が生起しているのである。

 しかし、上述の多くの問題点の指摘によって明らかなとおり、裁判員制には、上記重要、複雑、大規模な事件を含む対象全事件について問題なく順調に実施し得る確実な見通しなど存在しないことが明瞭である。このような状況のもとでどうして裁判員制の立法化などできるというのであろうか。

 思うに、法案作成の直前に至ってもこのような状況であるのは、裁判員制が、わが刑事訴訟法等との関係についての十分な検討を欠いたまま、「始めに裁判員制ありき」のような形で提案されたという誤りに由来するものと考えられる。この誤りが誤りとして反省されずに上記確実な見通しもないままに強引に立法化されるならば、国家(刑事司法を含む)及び国民に取り返しのつかない害悪をもたらすことになるのは必然である。

 裁判員制は断念されなければならない。刑事訴訟への国民参加を図ろうとするならば、構想を新たにしなければならない。その場合、参加者のくじ引き選出(国民に大きな負担をかけ、莫大な国費がかかる)、重大事件への関与(参加者の負担が大きい)、参加者への評決権の付与(違憲の疑いがある)だけは避けることを要する。このような条件のもとで、たとえば対象事件の罪種を限定して、民事家事の調停委員制度をモデルにした委員制を設けて、その委員に参加させるようなものが考えられよう。このようなものでも、現在の調停委員制度が民事司法及び家事司法におけるいわば国民との通路になっているように、刑事司法における国民との通路となることが十分に期待し得ると考えられる。

 政府当局の慎重の上にも慎重な検討を希望してやまない次第である。




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