平成16年5月、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下「裁判員法」あるいは単に法律・法という)が成立、平成21年5月末までの間に施行されることが決まっている。
 この法律を巡っては法律専門家からその違憲性について多く鋭い批判がなされているが、憲法・刑事法について素人である私は、法律論以前の常識論として、以下、国民の迷惑、裁判の質の低下という側面から、この制度に対する本質的な疑問を提起したい。


[1]国民に苦痛を与える裁判員制度
 内閣府が行った裁判員制度に関する世論調査によると、7割の人が「この制度に参加したくない」と答えている。(平成17年4月17日新聞各紙。以下年数の記載がない場合は平成17年)その理由として「有罪・無罪の判断が難しい」「人を裁きたくない」をあげた人が、それぞれ46%余を占めているという。
 この調査結果は、裁判員法が国民の要望に応えて成立したものでなく、特定の人々の「裁判の民主化」などという空疏な観念論から出発したものであることを示すものとして極めて重要である。法曹関係者はこの世論の動向をどうみているのであろうか。南野法相(当時)は、「世論調査の結果を真摯に受け止めるが、まだ理解が行き届いていない。一層の広報に努める」と語っている(6月27日『産経新聞』)が、「人 を裁くのはいやだ」と いうことはおそらく国民心理の深層から発するもので、広報や説明で解決する問題ではあるまい。この点、裁判への一般人の参加が普通になっている欧米諸国とは国民性の相違が大きいと思われる。
 ことに死刑判決に一票を投じた者にとっては、事案がいかに兇悪な犯罪であっても、人一人を死に至らしめた心の傷は、一生悪夢として消えることがないのではなかろうか。積極的な死刑肯定論者である私にとっても、ことは同様であって、理性的な判断と感覚的な心の傷とはおのずと別である。
 ことは「人を裁く悩み」に止まらない。一般人にとって、くじに当ったばかりに、平穏な、あるいは多忙な日常生活を犠牲にして全く異質の世界に無理矢理引きずりこまれ、面白くもない説明を聴かされ、興味も関心もない議論にまきこまれ、大して、あるいは全く自信がなくても意見を述べ、一票を投じなければならないことはまさに苦痛以外の何ものでもあるまい。ときとして凄惨な犯行現場の写真を見せつけられるのも迷惑なことである。
 裁判員として自信のある判断が出来ない場合、意見表明を棄権することが認められれば問題点の一つは解決するが、それでは棄権続出で裁判員制度は忽ちに崩壊しよう。
 この点について、最高裁長官は記者会見で、「沢山の国民が消極的のようだが、裁判員は一人で何もかも決めるわけではなく、社会の一般常識から見た判断が期待される」とし、過大な負担感を抱く必要はない、との考え方を示したという(5月3日『読売新聞』)。
 とりようによっては、裁判員といってもワンノブゼムにすぎないし、気楽にやればいい、との趣旨とも解される。
 死刑を含む重大事件の裁判に参加することの責任の重さを訴えるべき長官が、全く逆の、しかも裁判自体まで軽視するかのような発言をして国民の参加を促さなければならないことは、裁判員制度がいかに無理な制度であるかを物語って余すところがない。私が聴いた裁判員制度推進の立場からの講演で、講師(弁護士)は長官発言とは反対に、「人を裁くことは難しい。裁判員には真剣に悩んでもらわなければならない」と述べていたが、一般の人がくじに当ったばかりに、何故如上の苦痛に耐えなければならないのか。問題は法益の比較であるから、その説明には、裁判員制度にはその苦痛を補って余りがあるほどの意義があることが立証されなければならないが、後述するようにそのような意義は全く認められないのである。
 裁判員が蒙る経済的負担は、精神的負担に劣らず重要である。自営業者、職人、文筆家、医師その他のサービス業者、芸能人等にとって、仕事を休むことは収入の減少に直結する。僅かな日当で自由と収入とを奪われては、たまったものではない。サラリーマンの場合は直接収入には響かないかもしれないが、仕事上の支障・迷惑は莫大なものであり得よう。
 裁判員法では雇用主に対し、裁判員になった従業員に対して解雇その他不利な取扱いを禁止しており(71条)、サラリーマン裁判員の保護には配慮されているようであるが、この間にたまった仕事の後処理、しわ寄せされた同僚の迷惑はどうしようもないし、勤務先が受けるであろう損失は全く無視されている。
 去る2月12日、13日にNHKで放映された裁判員制度周知のためのドラマでは、審理が一日延びたため海外出張ができなくなった会社員が、急拠電話で交渉相手先の会社に延期を申し入れて了解をとりつける場面があった。ドラマだから簡単に了解されたが、現実にはそううまくゆくとは限らないし、又この延期が両社にとって商機を逸し、重大な損失をもたらすかもしれないことは簡単に無視されている。
 もっとも法は裁判員辞退事由に、「その従事する事業における重要な用務であって自らがこれを処理しなければ当該事業に著しい損害が生じるおそれがあるものがあること」があげられている(法16条7号ハ)。文言から見てその要件はかなり厳しく、普通の損害は無視されそうなので、国民の保護としては不充分のようである。かといって、これをゆるく解釈すれば、辞退者が続出することになりかねない。
 いずれにせよ、裁判員制度が国民に義務と経済的負担を課するものである以上、この点は制度の宿命的な問題である。
 念のため附言しておくと、この問題について法には損失補償の規定はない。補償しようにも損害の程度を客観的に算定することは不可能だし、仮にそれが可能だとしても国庫の立場からいって、日当、宿泊料以上の支払いは不可能だからである。裁判員制度を採る以上、国民に経済的損害が及ぶことは不可避なのである。
 裁判員にとっては、その違反に対して懲役を含む刑罰が課せられる守秘義務も頭痛の種である。法廷から解放されて帰宅して、「今日はどうだった?」との家族の問いに、「守秘義務があるから答えられない」では、一日の出来事を語りあう筈の夕餉の団欒も台無しである。友人間の会話にしても、もちろん同様である。もっとも守秘義務にも一定の範囲が法定されているようではあるが(法79条)、そんな 微妙な区別など素人に分かるわけがないから、実際はすべての問題に対して完全黙秘するしかあるまい。とんでもない心の負担である。そしてこの負担は生涯にわたって解除されることがないのである。
 なお裁判所は、必要に応じて補充裁判員を置くことができる。補充裁判員は裁判員が欠けた場合裁判員に選任されるのであるが、何時出番があるともないとも分からないのに、審理に立ち会い、守秘義務を負わなければならないのであるから(法79条)、その苦痛、迷惑は裁判員と何ら変らない。
 私個人についていえば、最早引退して職についているわけではないから、裁判員に選任されて経済的に損失はない。70歳以上で辞退の権利があるが、仮定の問題としていえば、くじに当っても、縷縷述べてきた精神面からの理由によって、履歴に傷がつくことは承知の上で、躊躇なく10万円の過料を課される途を選ぶであろう。

[2]裁判の質を低下させる裁判員制度
 裁判員制度の根源的問題として危惧される第二の問題点は裁判の質の低下である。
 第一の問題が個人的な迷惑、損害の問題であるのに対して、これはまさに公益、公の秩序の問題である。裁判員法1条は、裁判員制度が「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」と頭から断定しているが、「国民の理解」はともかくとして、「信頼の向上」は全くのひとりよがりであるといわざるを得ない。
 裁判員制度に賛成する有力紙の社説でも「民主主義の要請」(16年1月29日『日経新聞』、同3月7日『毎日新聞』)、「素人の健全な常識の導入」(同1月29日、3月3日『朝日新聞』)などが主張されているが、一例として藤沢忠宏氏の論説(15年12月13日『日経新聞』)を見てみよう。
 藤沢氏は裁判員制度の意義として、
「裁判を職業裁判官に任せてきたため、裁判が国民にとって分かり難いものとなり、国民の常識とかけ離れた判断がときどき示されるようになった。(中略)先進国では裁判官が信用できないからということではなく、人を裁くという重大な事柄には、国民も権限と責任を分担するのが民主主義だという共通の理解がある。裁判に国民が参加するという民主主義の本来の姿からいっても、裁判の内容を一層適切なものにする点からも、裁判員制度 の導入が急がれる」としている。
 思うに、刑事裁判の生命は、真実の発見と真実に対する刑の適用、量刑の適正である。裁判が民主的かどうか、国民が参加しているかどうかは、仮にそれが望ましいにしても付随的な事柄にすぎない。付随的要請に応えるために裁判の「生命」が犠牲にされることは、まさに本末転倒そのものである。
 従って問題は、専ら、裁判員制度がこの裁判の生命というべき要請を満足するために、プラスであるかマイナスであるかということでなければならない。そして結論からいえば、答えは明らかにマイナスである。その理由は次の3点である。

(1)向上が望めない裁判員の判断能力
 第一に裁判員の質の問題である。先に述べた裁判員制度に賛成する有力新聞の社説と藤沢忠宏氏の所説をあわせ読んでいると、「裁判官は非常識だが、国民は健全で常識的だ」といっているかのようにさえ思われてくる。なる程往々にして国民の常識とかけ離れた判決が見られることも遺憾ながらないとはいえない(もっともその判断も人によって大いに違うのではあるが)。
 私も今の職業裁判官による裁判が完壁であるなどというつもりは全くないのであるが、しかしおよそ人間社会の営みに無謬ということはあり得ないので、ことは確率の問題である。くじで選ばれた個々の民間人の常識が、高度の資格を取得し、専門的に訓練された職業裁判官より優れているということは、換言すれば刑事裁判の生命である真実の発見において、適正な刑の適用において、量刑の判断において、それぞれ勝っているということ は確率的にあり得ないことは、それこそ常識上明白である。
 国民の代表といえば、即健全な常識人だというのは、近時行き過ぎた民衆至上思想、民尊官卑の風潮が捏造した、神話といおうか、虚構といおうか、お伽話にすぎない。くじで選ばれた「国民」のうちには判断能力の乏しい者、投げやりで無責任な者、片よった考えの持ち主、何にでも異を唱える変わり者もいることだろう。韓国の俳優に現をぬかす人々も、失礼ながら健全な常識人といえるかどうか。
 法律では裁判員不適格事由として、裁判所が不公平な裁判をするおそれがあると認めた者を挙げているし(法18条)、又裁判員候補者の適格性調査のため、裁判所に質問票による質問を認めているが、そのうちに不公平な裁判をするおそれがないかどうかを判断するための質問も予定されている(30条1項)。
 その運用方針は今のところ明らかでないが、常識的に考えて、この条項によって排除されるのは、例えば、被告の学友、暴力団事案についての暴力団員、一定限度以上の知的障害者・視覚聴覚障害者、微妙なところでは兇悪事件における死刑廃止論者などに止まり、前述の判断能力に乏しい者、無責任な者などの排除は不可能であり、この条項によって裁判員の判断能力が向上することは到底期待できない。
 このように大衆不信ととられかねないことをいっていると、民主主義の根幹である選挙制度にまで疑念を持つ者であるかのようにとられるおそれがあるが、それは全く違う。選挙は投票用紙に候補者の名前を書くだけの極めて単純な作業である。字さえ書ければ無能力者でもできることであって、別に判断力は必要でない。そのような一票も神聖な一票として数えられ、玉石混淆の投票が集積されて大勢としての「民意」となるのである。
 大数法則としてみれば、このようにして形成された民意を、一票一票の健全性とは関係なく、全体として健全なものと受け止めるのである。ところが裁判員の場合はそうはゆかない。ここでは大数法則は働かず、選挙において立候補者の容姿を基準に投票した人も、人のいうままに投票した人も、鉛筆を倒して投票した人も、裁判員として自分の頭で判断して意見を述べ、一票を投じなければならないのである。
 選挙を通じて国政に参加しているのだから、裁判に参加できない筈がないというのは、投票にあらわれた総体としての民意の健全性と、個々人の常識の健全性を混同した虚構にすぎない。

(2)軽薄な時代風潮を反映した審理方法
 裁判員制度によって刑事裁判の生命ともいうべき真実の発見、適切な刑の適用と量刑の要請が却って満たされなくなると考える第二の理由は、裁判員の質の問題と必然的に関連して、審理の進め方がいかにもお手軽になる惧れがあることである。
 裁判員制度では、裁判員の負担軽減のため、法は「裁判官、検察官及び弁護人は(中略)審理を迅速で分かりやすいものにすることに努めなければならない」(51条)、「裁判長は(中略)裁判員に対して必要な法令に関する説明を丁寧に行うとともに、評議を裁判員に分かりやすいものとなるように整理し(中略)なければならない」(66条)と規定している。
 「分かりやすい」ということは裁判員制度のキーポイントであろう。しかしそれが司法特有の難解な用語・表現を避けることに止まる限りは問題はないが、往々にして厳密性の欠如をもたらす惧れがあることは否定できない。
 法律に規定されているわけではないが、諸解説によると、説明には文章よりも口頭やイラストが多用されるようである。ものを読む慣習の乏しい裁判員のためにはやむを得ない、というよりむしろ必然の措置であろうが、この辺りに裁判員制度の本質的問題があることを見逃すわけにはゆかない。
 口頭での話の聞き取りには「聞き落し」「聞き違い」がつきものであることは、我々が日常体験しているところである。加えて、人間は「忘れる」動物である。裁判が理想どおり3日連続開廷で済むとしても、昨日聞いたこと、一昨日聞いたことが整然と頭に残っていることなど期待し得べくもない。
 これを補うのはメモであろうが、書類を読むのが苦手だから口頭説明で済ませようとする人が、説明の要点を要領よくメモることなどできよう筈がない。この辺は制度実施後、試行錯誤で裁判長がレジュメをつくったり、当日の議事内容をまとめて配布するなりして補うのであろうか。いずれにせよ、口頭主体の審理には、殆んど絶望的な困難、あるいは不正確がつきまとうことを覚悟しなければなるまい。
 前記のNHKテレビ放送では、裁判長が膨大な関係書類を繰り返し精読する場面があったが、他の裁判官、検事、弁護士ももちろん同様の努力を重ねている筈である。裁判員制度になっても裁判官は今までとおり莫大な書類に取り組むのであろうが、その結果得られた知見が、「分かり易い説明」で得られた裁判員のそれと同じ一票[裁判官・裁判員の人数を加味していえば、6分の3、あるいは4分の 1]にしかならないというのは不公平 そのものである。
 私が体験した税務の事務を例にとっていえば、複雑厖大な税法、関係政省令、通達、判例・学説を精読して判断していたものを、薄手のハウツウものである「早分かり本」で、苦労をせずに判断するようなものである。
 例え結果として結論が同じであっても、判断の深味において、厚味において格段の違いがあろう。信頼性は比較にならない。素人にも分り易い、イラスト的説明というのは、言葉を変えて言えば、ことの根底にさかのぼっての、時間をかけて真剣な取り組みよりも、お手軽で手っとり早い取り組みをよしとする、軽薄な時代風潮(文字離れの文化といってよいかもしれない)を、「人を裁く」、そして死刑を宣告するかもしれないという、最も 慎重を要する刑事裁判の場に持ち込もうという、おぞましい試みに外ならない。
 このような法廷では、論理よりも派手なゼスチャーや弁舌の巧みさが勝ちをおさめ、裁判員の理性よりも感情に訴えることが検事、弁護士の戦術となるのではあるまいか。
 大阪地検が行なった内部の模擬裁判の反省会で、検察官の立証活動に対し、「もっと身ぶり手ぶりを交えては」との意見が出たという(7月1日『読売新聞』)。こんなことになっては最早裁判の堕落そのものである。
 元札幌検事正小林永和氏はいう。
 「虚構に満ちた多数の証言や複雑な証拠を正しく評価して的確な判決を言い渡せるか。私は検事として多数の捜査公判に関与したが、真実の発見は至難の業であった」(15年11月13日『産経新聞』)と。
 短い言葉で裁判員制度の本質的欠陥を端的に指摘している。

(3)審理の迅速化にひそむ危険性
 裁判員制度の意義として裁判の迅速化が挙げられているが、裁判員制度の下では裁判員を長期間拘束するわけにはゆかないから、裁判を迅速化しなければならない、ということと、裁判員制度によって裁判の迅速化が可能になるということとは全然別の問題である。迅速化のため刑事訴訟法の改正によって公判前整理手続きが新設された。
 又先に、松尾検事総長は検察官会合で、「被告が認めている事件なら3日、否認している事件でも5日で判決がでるように取り組む」ことを要請し、検察内部ではこのため証拠の数の絞り込み、供述調書の抜粋朗読などが検討されているという(6月30日『読売新聞』)。裁判の質を落とさずしてそのようなことができるのならば結構なことであるが、それによって立証不充分、審理不充分が生じることになれば、「早い裁判」も裁判の質を低下 させる要因になりかねない。
 又組織としての統制力もある検察官側だけが「早い裁判」の要請に応えても、このような事情にない弁護人側がこれに応じて協力しなければ裁判は著しく歪められてしまう。「早い裁判」にはこれらの危険がひそんでいることを承知しておく必要があろう。裁判を早くするため、集中審理、連日開廷などの方策が採られるという。しかし、そのような方策は、裁判員制度によって始めて可能となるもので はあるまい。これらの方法によって質 の低下なくして裁判ができるというのであれば、裁判員制度を俟たずとも、今直ちに実行すればよい。裁判が長すぎるという問題は容易に解決しよう。
 しかしその事案を担当する検事、弁護士が他の事案を担当していればそれも困難であろう。ことに弁護士は民事事件にも関与しているであろうから、日程の調整は簡単ではあるまい。このことは裁判員制度下おいても変りはないから裁判員制度を契機として裁判が促進されるということも余り期待できまい。ましてや前述の3日あるいは5日の裁判は普通の事案についての目標であり、たまたま数年を要するような長期裁判にひっかかってし まった者は、生涯の設計を考え直す破目になることもあり得よう。まさに国家による暴力的人権侵害といわなければならない。
 裁判の早期化のためには、又、検事の取調べ段階における自白の信用性の有無についてのやりとりが裁判の長期化の一因となっていることから、取調べを録音・録画すべきであるとの主張が行なわれている。
 いかにも一般受けしそうな主張であるが、兇悪犯の場合、ことはこのようなきれいごとですまされるわけのものではあるまい。録画化が実行された場合、検察側と弁護側のバランスが大きく後者に傾くことになり、その結果、起訴率・有罪率は著減するのではないか。兇悪犯援護になりかねないこのような措置が本当にいいことなのかどうか。裁判員制度導入のためというような次元を離れて議論をつきつめなければならない。

[3]裁判員制度は百害あって一利なし
 裁判員制度は、国民に甚しい苦痛と迷惑を強いる一方、裁判の質を低下させ、裁判の信頼性を根底からゆるがす試みである。
 それによって得られるのは、裁判の民主化という空疎な観念論が満足されることだけである。誠に百害あって一利もない制度である。
 冒頭に述べたように制度の実施は4年後に迫っているのであるが、ここで思いあわされるのは、かつてグリーンカード制が昭和55年3月法成立後、61年1月からの実施をまたずして、60年3月廃止されたことである。
 裁判員法についてもこの先例にならって最後の段階まで廃棄に向って世論に訴える努力が続けられなければならないと思うのであるが、関連して一つ提案したいことがある。
 裁判所、法務省は裁判員制度を推進する立場にあり、組織として広報に努めているのであるが、実務に当る判検事、弁護士は裁判員制度をどのように評価し、その実行可能性について個人としてどのように考えているのか、匿名のアンケート調査をしてみてはどうであろうか。関係者の真剱な検討をお願いしたい。

 それにしても、たった数人の住民の反対のため成田空港に何年たっても満足な滑走路が完成せず、世界が不便を強いられているばかりでなく、東洋の空の玄関の地位を韓国・中国に奪われようとしている反面、国民の7割が参加を渋っている裁判員制度が強行されようとしている。矛盾これより甚だしきはないのではないだろうか。

裁判員制度を廃棄せよ
裁判への信頼を根底から揺るがす裁判員制度

大島隆夫