俗 解 論 塩 原 経 央 漢字は恐らく四世紀後半、歸化人によつてわが國に齎らされたであらう。それから千數百年、中國とは別の獨自の進化を遂げた、と私は考へてゐる。日常に用ゐる字種も彼我には隨分違ひが出て來てゐて、例へば彼らは「賣る」意味に「售」などといふ、日本人が見たこともないやうな字を使つてゐる。もちろん「售」は簡體字ではない。もはや同文同種などとはとてもいへないのである。 なか卯といふ牛丼屋の看板に「丼ぶり」と書いてあるのを見て、今時の人は「丼」はドンといふ音の字と思つてゐるのかと驚かされた。さういへば、「天丼」「鰻丼」などはさう書いてテンドン、ウナドンのやうに丼をドンと讀んでゐる。 もつとも丼をドンブリと讀むのも本來の漢字の意からは隨分離れた俗用で、丼の字音はセイ、字義は井戸である。中心にあるヽは井戸の中の清水、井が井戸枠を表してゐる。しかし、丼といふ字をじつと見てゐると真ん中のヽはどうも井戸に石を投げ入れたやうにも見える。北宋の發音字典『集韻』には「物を井戸に投げる音」とあり、轉用したものである。井戸に物を投げ入れれば、ドンブリと水のはね返る音がしよう。それを陶器のドンブリに重ねて、洒落で「丼」の字を借用したのだ。中國には天丼や鰻丼のやうな食べ方があるやは知らぬが、丼を日本のドンブリの意には恐らく用ゐてはゐまい。 このやうに、なるほど漢字の元祖は中國であるが、それが日本に入つて來てから日本人流の工夫がなされ、日本人流に使はれるやうになつたとしても、何ら目くじらを立てるやうなことではない。 象牙の塔の學者にありがちなことに、漢字俗解を學問を知らぬうつけ者の説と小ばかにするところがある。何でも彼でも金石文の昔に立ち返つて説明しなければ氣が濟まないとでもいふ風に。いつか「子供」は「子ども」の如き阿呆な書き方をすべからずといふ趣旨のエッセイを書いたことがある。子どもなどといふ書き方をする連中は、「供」の字がお供の供か、供へ物の供で子供の人權を損なふ差別的表記だと拔かすのだが、子どもと書くのは子供を野郎どもの「ども」に書き換へるのだから却つて差別的ぢやないかと辯駁したのである。子供の「供」は「人」と「共」でできてゐる。子供といふものが大人の庇護すべき 〈人と共にあるべき存在〉 なのだ、と考へたらますます「子供」といふ表記でなければならぬといつた趣旨のエッセイだつたのだが、私は大學者先生に某週刊誌に取り上げられて、おちよくられてしまつた。そんなのは俗解にすぎぬ、と。 俗解はいい加減な出まかせとばかりは限らない。大事なのは日本人の文字生活はある部分、俗解が言葉のイメージを廣げ、知的活動の刺戟劑となり、心の教育の一端をさへ擔つて來たことである。 例へば、「晴」といふ字は『角川大字源』の字解によると、「意符の日(ひ)と、音符の青セイ(ひらく意=啓ケイ)とから成る。雲が開いて日が見える、『はれる』意」とある。字源を調べるとさういふことにならう。それは否定しない。けれども、子供に教へるのにはそんな高尚なことよりも、「青空に日がある樣子をイメージしてごらん。それがこの字の意味、つまり 〈はれる〉 といふことなんだよ」と言つた方が斷然記憶に殘りやすからう。 最近はフェミニズムが浸透して、女權擴張と勘違ひした女がどんどん行儀惡くなり、却つて男の子が優しいなどといふ逆轉現象が生じてゐる。さういふ軟弱化した日本男兒にぜひ教へたいのが、「優」が人を憂ふるといふ構成だといふこと。人を憂ふるとは人の喜びをわが喜びとし、人の悲しみをわが悲しみとできる心の營みのことだ。ただ、女に鼻面を引き囘されるのは「優しい」といふ國語には當たらない、と。これも「優」の俗解だからこそ教へられる情緒の教育にならう。 新聞界では漢字熟語を假名と交ぜて書く惡習がずつと續いてゐて、やうやく見直しの機會が訪れたので、私は「交ぜ書き」完全廢止論を終始主張した。だが、常用漢字枠を守らねばならぬといふ頑迷な一派によつて、無念なことに交ぜ書きの追放はならなかつた。彼らが温存した交ぜ書きの中には「し尿」といふのもあつて、それが學術用語なので新聞も「し尿」でなければならぬといふ、へんちくりんな論理が罷り通つてしまつたのである。「屎」は米のしかばね(尸)、「尿」は水のしかばねと教へれば子供たちはすぐに覺えてしまふであらう。これも俗解の效用である。 (平成十五年六月十一日) (鹽原經央、しほばら・つねなか。詩人。「文語の苑」幹事。國語問題協議會評議員。日本新聞協會用語懇談會委員。産經新聞東京本社編緝局の校閲部長を務める、また記事主題任意の特別記者(局長待遇)でもある。たびたび産經紙上に名隨想が載る。本文の著作權は筆者塩原経央が保有する。無斷轉載を禁ず) |