日 本 語


土 屋  道 雄   



   日本語についてのアンケートを見る限り、七割位の人が日本語は乱れてゐると見てをり、今日の状況を憂慮してゐることが判る。乱れを乱れとして認識されなくなつたら救ひやう がないが、努力次第で乱れを正す途がなほ残されてをり、日本語の将来に絶望するのはまだ早いかも知れない。
   近頃、情報化社会といふ言ひ方をしばしば聞くが、情報の多くは言語文字を媒体として ゐる。随って、情報を正しく伝へるためには、正しい日本語を使用することが前提となる。 ところが、近頃の若者は敬語の使ひ方がでたらめであるとか、手紙もろくに書けないとか、 試験答案やレポートを見ると誤字だらけだとか、若者の国語力の低下を嘆き批判する声が巷に満ちてゐる。
   私の体験からもその通りだと認めざるを得ない。小・中・高において十二年間学んでき たはずだが、六百字程の小論文すら満足に書けない。十二年間、一体何をしてゐたのか、十二年間も学んで母国語で文章らしい文章が書けないといふのはどうしたことか、実に不可解である。
   それなら、話す方はどうか。これがまた惨憺たるもので、自分の意見を筋道立てて述べ ることができない。日常の会話ときたら、意味不明の略語を交へながら「それでさ、聞い たらさ、彼ったらさ……」といった具合に、文節毎に「さ」や「ね」をつけて文法の演習でもしてゐるのかと疑ひたくなる。ここに、格調の高い名文を読まなくなつた弊害が如実に現れてゐる。
   何はともあれ、語彙が貧弱である。慣用句やことわざも身についてゐない。少し前までは日常生活でよく使はれたきまりきった言ひまはしが通じないことがある。折角の機知や ユーモアが通じなくてがっかりするだけでなく、とんちんかんな受け答へをされてびっく りしたり、反対の意味にとられてまごついたりする。「いやが上にも、破竹の勢ひ、痛く も痒くもない」といふ慣用句を使った短文を書かせると、「金がないので、いやが上にも 働かなくてはならない」「破竹の勢ひで電車に飛び乗った」「ボールが当つたが、痛くも痒くもなかつた」などと書いて平然としてゐる。
   この場合、慣用句のおよその意味は解ってゐるのだが、多くの書物を読むことによって 自然に身につけたものでないから、悲しいかな、こんな使ひ方しかできないのである。
   ただ、その責任を若者に負はせて、若者の無知を笑ってすますことはできない。若者も 好き好んで間違へるわけではない。間違ひを間違ひと知らずに、つまり、言葉や文字についての知識が不足してゐるために間違へるのである。若者は正しい言葉、正しい言ひまはしを教へられてゐないのである。
   「五十歩百歩」を例に挙げれば、使はれてゐる漢字の意味は誰でも知ってゐる。が、この言葉の由来を教へなければ、五十歩と百歩とでは二倍も違ふから差が大きいことではないかと誤解しかねない。「白眉」にしても「しろいまゆ」がどうして「多くの中で最も優れてゐるもの」といふ意味になるのかは、中国の故事を知らなければ解らない。
   漢字についてはその「なりたち」、言葉についてはその「語源」なり「故事」なりを教 へることが、一見回り道のやうで、実は漢字や言葉をしっかり身につけさせる早道なので ある。また、生徒に興味を抱かせ、延いては生徒を国語好きにする一方途でもある。
   常用漢字一九四五字を音と訓の数によって分類すると、一音訓なしが六六五字、一音一訓が六三三字、一音二訓が二二七字、二音訓なしが七一字、二音一訓が九一字(以下略)となつてゐる。日本で作られた漢字に音がないのは当然だが、「貝、娘、株」のやうに本来音があるのに認められなかつたものを含めて、一九四五字の中に音のない漢字が四十字ある。更に驚くべきことに、訓のない漢字が何と七三八字もあり、いはゆる教育漢字九九六字の中には三〇五字の訓なし漢字がある。その中には「胃、腸、肉、線」のやうに、音がそのまま訓のやうな働きをしてゐるものもあるが、訓なし漢字がこれほど多いのは、戦後音訓整理とか称して訓を制限したためである。しかし、訓なしだからといって、その漢字を使ふ以上、その漢字の意味を知らなければ正しく使ふことができないのであるから、いらざる制限をしたものと言はざるを得ない。
   意味のない漢字はなく、その意味が訓であることが多い。訓のない漢字で、どうしても短い和語で意味を表せないものは別として、たとへば復の「かへる」、視の「みる」、容の「いれる」、圧の「おさへる」のやうに短い和語で意味を表すことのできるものは訓として採り入れる方が、どれほど教へやすく、学びやすいか知れない。この意味を教へないで「往復、復旧」「視力、正視」「容器、収容」「圧力、圧迫」等の熟語を理解させることはむづかしい。
   また、訓があつても、その訓だけでは不十分なものがある。たとへば原は「はら」の訓 しか認められてゐないが、「もと」といふ意味があることを教へないで「原形、原料、原文、 原案」等の熟語の意味を理解させることはできない。それなら、初めから訓として教へれ ばよい。それが道理といふものであらう。わざわざ教へにくく、学びにくくすることはあるまい。
   私が何よりも情なく思ふのは、小・中・高を通じて、国語の嫌ひな生徒が多いことであ る。それも高学年になればなるほど著しく、国語を学べば学ぶほど国語が嫌ひになるとい ふのだからやりきれない。最も好かれていいはずの国語が最も嫌はれるといふのはどうし たことであらうか。どう考へても、自国語を学ぶことが喜びどころか苦痛だといふのは奇 怪である。
   一口で言へば、戦後の国語教育が間違ってゐたからだらうが、これを改善することは容 易ではあるまい。容易ではないが、われわれ日本人は国語によってものを考へるしかない のだから、国語力が貧弱なら思考力も貧弱にならざるを得ない。また国語はわが国の文化 と密接に結びついてをり、国語が衰弱することは日本文化が衰弱することであるから、このままでいいわけがない。
   若者の国語力が低下した責任の大半は、戦後の杜撰な国語改革を推進した文部省にあり、その改革に盲従したマスコミにある。十数年前から改革の過誤を是正する手直しがなされてきたが、はなはだ不十分なものである。従来の強制的・制限的性格を改め、「目安」ないし「よりどころ」とかにしたのに、マスコミは少しも姿勢を改めてゐない。
   たとへば「朝日」(平成四・二・一五)は読者の「風光明媚、萎縮」と書くべきではないかといふ質問に「媚」も「萎」も常用漢字にないため「風光明美、委縮と書き換えて表記するよう取り決めています」と答へてゐる。こんな不見識な独りよがりが罷り通るやうでは、言葉の乱れを正さうとする人々の努力は無駄にならう。旧態依然たる「朝日」の姿勢には失望せざるを得ない。実に情ない。腹立たしい。






( 『嫌ひは嫌ひ好きは好き』(平成十三年、私家版、頒價千七百圓)所收。 初出は『時事評論』平成四年十二月十日號。本文の著作權は筆者土屋道雄が保有する。無斷轉載を禁ず)