言葉の抹殺


                                        土 屋  道 雄


   いはゆる差別語はこのまま消滅してしまふのか。そんなことがあってはならない。どの言葉が差別語で、どの言葉が差別語でないか、峻別できるのか。そんなことはできない。すべての言葉が差別語だとも言へるし、すべての言葉が差別語でないとも言へる。差別は言葉にあるのではなく、言葉を使ふ人間の心にあるのだ。
   差別をなくする意図でいはゆる差別語を使ふこともあれば、反対に、差別語を一語も使はずに人を差別することもできる。随って、いはゆる差別語がどのやうな文脈の中で、どういふ意図をもって使はれてゐるかが問題なのであつて、文脈や意図と切り離して是非を云々しても意味がない。
   さうであれば、新聞社、出版社、放送局等がつくってゐる「言い換え集」や「放送上さけたい用語」などは有害無益と言はざるを得ない。
   文法の誤りは正さねばならない。言葉づかひの間違ひは正さねばならない。漢字の誤用は改めねばならない。が、これこれの言葉は使ってはならないと禁止する権利は誰にもない。言葉の使用を禁止することによって、現実を変へることができると思ふのは錯覚である。
   マス・メディアは自主規制と称して、いはゆる差別語をタブーとして使用しない。そのために言ひ換へ用のパソコン・ソフトまで作ってゐるやうだが、これは自ら言論の自由、表現の自由を踏みにじることであり、現実に存在する差別をなくするといふ本来の課題に は何の益もない。むしろ、現実に存在する差別を隠蔽することになり有害ですらある。
   老婆を「老女、老婦人」に、芸人を「芸能人」に、職工を「工員、工場従業者」に言ひ換へることにどれほどの意味があるのか。私は「芸人」は尊敬しても「芸能人」は尊敬しかねる。


   文語訳の『新約聖書』にはいはゆる差別語がたくさん出てくる。たとへば「彼らを捨ておけ、盲人*を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」とある。これが口語訳では「彼らは盲人**を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」とふやけた文章になつてゐる。「めしひ」を「もうじん」にする意味など全くない。
   これが更に「彼らは目の不自由な人を手引きする目の不自由な人である。もし目の不自由な人が目の不自由な人を手引きするなら、……」となつては読む気がしない。
   言葉といふものは、一つ一つ孤立して存在してゐるわけではない。「めくら」といふ言葉には「めくら打ち、めくら縞、めくら判、めくら滅法、めくら飛行」などの慣用句や、「めくら蛇に怖ぢず、めくらの垣覗き、めくら千人めあき千人」などのことわざがある。これらの表現は直接目の不自由な人を侮蔑するものではない。単なる比喩として使はれてゐるに過ぎない。
   現実に差別があることを否定する者はないだらう。日常生活において、時には差別する者として、時には差別される者として、多かれ少なかれ、皆差別を体験してゐるに違ひない。いはゆる被差別部落民、身体障害者のみならず、性、学歴、職業、貧富、家柄、容貌による差別等、大小様々な差別が実際にあって、われわれはそれらの差別と日々闘ってゐると言へよう。ただ、その差別をなくするために言葉を換へるのは無意味である。
   ここ何年かの動きを見てゐると、差別のないところに、差別とは感じられないところに、あへて差別を見出さうと探し回ってゐる感じがある。さうか、さう言はれれば差別につながるやうだ、といふ程度のものを探し出して問題にしてゐるやうな印象を受ける。用語がどうのかうのではなく、現実に存在する差別に直接目を向けるべきではないか。
   ある団体から抗議を受けるとすぐ謝罪し、書物を回収したり絶版にしたり、マス・メディアの弱腰はあきれるばかりである。なぜ毅然たる態度がとれないのか。長い物には巻かれろといふことか。抗議を恐れて、いはゆる差別語を使はないといふのは事なかれ主義である。
   言葉に対する姿勢があまりにも安直である。言葉を内面の問題として、また文化の問題として捉へてゐないからだが、それは戦後の国語改革以来マス・メディアが一貫してとってきた姿勢でもある。
   常用漢字表にないからといふだけで「挫折、軽蔑、語彙」を「ざ折、軽べつ、語い」と書けとか、「萎縮、貫禄、戦々兢々」を「委縮、貫録、戦々恐々」と書けとか、あるいは「全貌、明瞭、涵養」を「全体・全容、はっきり、養成・養育」に言ひ換へろとか、乱暴極まる愚行が罷り通ってきた。
   マス・メディアはかうした愚行の推進役を務めてきてをり、反省してゐる風は微塵も見られない。『朝日新聞の用語の手びき』
(第十一刷)の「表記の基準」には、常用漢字表と同音訓表で書き表せない言葉は「別の言葉に言い換えるか、仮名書きにする」とあり、拉致、菟罪を「ら致、えん罪」とするやうな一部仮名書きにすることは極力避けるとある。
   つまり 「ら致、えん罪」では読みづらく、わかりにくいといふことである。しかし、紙面は必ずしもさうなつてゐない。たとへば小見出しに「厚木の拉致」とあるのに、本文には「石井さんをら致し……」「ら致の動機」とあり、他にも「胸をはってのがい旋、貧打にコーチ悲そう、金ねん出へ知恵絞り、命がけのそ上、し烈、う回」のやうな一部仮名書きをしばしば見かける。「がいせん、ねんしゆつ、うかい」といふ言葉を使ふ以上「凱旋、捻出、迂回」と書くべきであらう。
   また、次のやうな言ひ換へは非常識ではないか。
   「深刻化する」は「深まる」にするとあるが、「問題が深刻化する」を「問題が深まる」としたのでは意味が違ってしまふ。
   「妾」は「愛人」に言ひ換へるとあるが、妾は男が本妻のほかに愛し養ってゐる女であり、愛人とは違ふ。
   「沙汰」は「便り、知らせ」に言ひ換へるとあるが、「沙汰の限り、沙汰止み、御無沙汰、 裁判沙汰、表沙汰」などを「便り、知らせ」などに言ひ換へることはできまい。本気で「便りの限り、便り止み、裁判知らせ、表知らせ」と書くつもりか。
   戦後の国語改革によって、どれほど日本語は歪められ破壊されたことか。明治以来のあらゆる改革の中で、これほど愚劣な改革はなく、日本文化にこれほど大きな不利益をもたらした改革はないだらう。
   マス・メディアはこの愚劣な国語改革を唯々諾々として受け容れ、自らの手足を縛るだけでは満足せず、執筆者の意思に反して表記を改めるといふ愚挙を当り前のこととして強行してきた。そんなマス・メディアが差別語の言ひ換へに痛みを感じるわけがないのだ。
   昨今の文庫本を見るがよい。仮名づかひの改変に終始反対しっづけた森
外の小説さへ新字体・新仮名づかひに改められ、見るも無残な姿をさらしてゐるではないか。


   抹殺されつつある言葉はこの類のものだけではない。
   東京創元社の『日本史辞典』で「支那事変」の項を引くと「日中戦争」を見よとあるだけで説明がない。そして「日中戦争」の項には「……日本の中国侵略戦争……」の文字、「太平洋戦争」の項には「……第2次大戦の一部、日本では当時『大東亜戦争』と呼称……」の文字が見られる。
   最近の国語辞典も似たり寄ったりで「支那事変」「大東亜戦争Jの項に説明のあるものは皆無と言っていい。学研の『国語大辞典』に至っては「支那事変」の項もなければ「大東亜戦争」の項もない。どちらも当時頻繁に使はれただけでなく、今日も使はれてをり、決して死語ではない。死語にしたいといふ意図の現れと思はれるが、辞典としての機能を著しく損ふものと言ふ外あるまい。
   当時、日本では北支事変とも日支事変とも日華事変とも言はれたが、その後の経緯から支那事変といふ呼称が最もふさはしいと言へよう。
   日本は支那との共存共栄を願ひこそすれ、支那を侵略する意図などなかった。日支戦争と言はず、支那事変と称したのは、日本と支那は戦争をしてはならない、これは不幸な事変であり、早急に矛を納めるべきだといふ意思を内外に示したかったからである。だから「日中戦争」といふ呼称は歴史を歪めることになり承服できない。


   太平洋戦争は「PACIFIC・WAR」の訳語でアメリカ側の呼称に過ぎない。日本は昭和十六年十二月十二日、閣議で対米英戦を支那事変を含めて「大東亜戦争」と呼ぶことに決したのだから、これ以外に正統な呼称などあらうはずがない。
   アメリカにとっては、太平洋における日本との戦争であったかも知れないが、日本にとっては、東亜の欧米植民地における米英蘭との戦争であったのだ。大東亜戦争と太平洋戦争は決して等価ではない。
   日本は大東亜戦争で敗れた。その結果、戦勝国による一方的な裁判で侵略国といふ汚名を着せられた。それから半世紀が過ぎたといふのに、日本人はこの東京裁判史観から一歩も脱け出せないでゐる。
   先に示した辞典類から中学・高校の教科書に至るまで、概ねこの東京裁判史観に基づいて書かれてゐる。われわれはこの呪縛からいつ解き放たれるのだらうか。いづれその日がくることを信じてはゐるが、衆寡敵せず、何とも気が重いことである。
   名は体を表すと言ふ。東京裁判史観を肯定する立場の人は概ね「日中戦争、太平洋戦争」といふ呼称を用ゐ、批判する立場の人は「支那事変、大東亜戦争」といふ呼称を用ゐる傾向にある。とすれば、なほのこと呼称一つでも疎かにはできない。頑に正統を守るしかない。




原文のルビは*「めしひ」、**「もうじん」である。



(つちや・みちを。 『嫌ひは嫌ひ好きは好き』(平成十三年九月刊、私家版) 所收。初出は『月曜評論』平成六年十一月五日號。本文の著作權は筆者土屋道雄が保有する。無斷轉載を禁ず)