土屋道雄「福田恆存」

     福田恆存

                                         土屋  道雄

   私にとって真に先生と言へるのは福田恆存先生しかゐない。先生の通夜の席では何も考へられず、夢の中にゐるやうな頼りない心持で先生の悌をぼんやり思ひ浮べてゐた。涙は出なかった。皆と別れて一人になったら、にはかに悲しみが込み上げてきて涙をこらへることができなくなった。
   先生について何か書けと言はれても、まだ心の整理がつかず、何をどう書いたらいいのか分らない。
   五年前に上梓した『福田恆存と戦後の時代』で、私の言ひたいことは尽きてゐる。執筆中、終始私の念頭にあったのは「孤高の人・福田恆存」であった。だから、私は本の題名もさうしたかったのだが、出版社の意嚮で「福田恆存と戦後の時代」となり、内容が題名と必ずしも整合しなくなってしまった。
   それはともかく、先生からお叱りを受けることを覚悟してゐたのに、先生が殊の外喜ばれ出版社にお礼の電話をされたと聞き胸を撫で下した。私には先生直筆の「春服既成」の文字を表装して送って下さった。今、その掛軸を手に取り、改めて過ぎし日の思ひ出を噛みしめてゐる。
   私が初めて先生の文章を読んだのは十八歳の時である。角川書店の昭和文学全集に収められた先生の「芸術とはなにか」「芥川龍之介」「龍を撫でた男」を読んだ時の感動は強烈であった。次いで『平和論にたいする疑問』を読み、先生に直接会って話を聞きたいと思って手紙を出したところ、先生は快く承知して下さった。さうして初めて大磯に先生を訪ねたのが二十一歳の時である。
   その最初の出会ひから既に四十年近い年月が経ってゐるが、その間私は親しく先生の謦咳に接し、新刊であらうと古本であらうと、先生の著書を片端から買ひ集めて貧るやうに読み、先生の文章をこの上なく大切にしてきた。
   先生の逝去の記事に「保守主義者」とあるが、先生ほど「主義」に無縁の人はゐない。にも拘らず、先生ほど様々なレッテルを張られた人もゐない。保守主義者に始まり、現実主義者、保守反動、合理主義者、個人主義者、芸術至上主義者、論争屋、喧嘩屋、天邪鬼、懐疑派、皮肉屋、策士、鬼才、ソフィスト、モラリスト、スタイリスト、ニヒリスト、更にオプティミズム、ペシミズム、ストイシズム、リゴリズムといったレッテルを張られた先生自身は最もレッテルの嫌ひな人であつた。
   どのレッテルも全く見当外れとは言へないが、どれも先生には当て嵌まらない。それは先生がレッテルを拒絶する生き方をしてきたからである。知識人の多くはある種のレッテルを好んで身につけたがる。とりわけ戦後は平和主義、民主主義、自由主義、ヒューマニズムなどは好まれるレッテルの筆頭であつた。
   レッテルは時に窮屈な思ひをさせもするが、概して孤立を惧れる知識人の仲間意識を育み、甘えと自己欺瞞の温床となる。先生が様々な問題を通じて批判してきたのは、正に知識人のその甘えと自己欺瞞にほかならない。
   先生は他人への甘えは勿論のこと、自分への甘えも許さない。自己欺瞞の罪に較べれば他人を瞞す罪の深さなど高が知れてゐると言ひ切ってゐる。それは自己に誠実であらうとする生き方であり、それには孤立を倶れぬ強靭な精神を必要としたに違ひない。
   清水幾太郎氏の度々の変節を先生が批判した折、保守派と目される知識人の多くは、土産を持って仲間入りをしたいと言ってきたのだから入れてやればよいではないか、仲間にとって有利ではないかといふ受け止め方をしてゐるが、先生が問題にしたのは、清水幾太郎といふ人間である。変節は許せるにしても、その変節を正当化する自己弁護と自己欺瞞、そして、それが許されると考へる自他への甘えは黙って看過すことができなかったのだ。だから、先生は清水氏に向って、国家に対する忠誠も大事だが、自己に対する忠誠、言葉に対する忠誠も大事である、と忠告せずにはゐられなかったのである。
   先生は清濁併せ呑むといった性格ではない。あまりに潔癖であるために、事をいい加減にすますことができない。妥協することができない。相手が誰であらうと、事柄が何であらうと、納得できないものはできないとして斥けずにはゐられない。先生には仲間だからといって甘えを許さない厳しさがある。仲間うちで褒めあったり、庇ひあったり、傷を舐めあったり、甘えあったりするのがたまらなく嫌なのである。
   先生には身を寄せる城がない。決して城を持たうとしない。城があれば、敵の攻撃から身を守ることもできるし、戦ひに疲れたら体を休めることもできる。互ひに助け合ふ仲間がゐればどれほど心強いことか。気の弛みが死につながることもない。時には怠惰も許される。甘えも許される。が、先生は常に城の外で戦ってゐる。どこから弾が飛んでくるかわからない。休むことなく戦ひ続けなければならない。絶えず精神を緊張させてゐなければならない。弛緩は死を意味する。駆け寄ってきた味方と共に戦ふこともあるが、すぐ離れてしまひ、また独りで戦ふことになる。
   先生の孤独は根が深い。幼少の頃からずっと孤独であった。父が引越し好きで度々転居したため、親しい友人ができなかった。病弱でもあり、家にあって独りで本を読んで過すことが多かった。中学でも高校でも、やはり孤独であった。先生の孤独な魂は自づから書物の世界、言葉の世界へ己を追ひやることになった。
   東京大学入学後も状況は変らず、先生は「その頃の私は用の無いおしゃべりが苦手で、むしろ孤りを好んだ。私は気質的には良くも悪くも職人であり、下町人種であつたのだ」と文藝春秋社の『福田恆存全集』第一巻「覚書一」に書いてゐる。
   先生の父は東京電燈株式会社の出張所長をつとめ、退職後は近所の子供たちに書道を教へたといふから、相当の教養を身につけた人であったと思はれる。その父の兄三人は箪笥職人であり、母の父も母の兄弟二人も職人であったから、先生は職人の世界に育ったと言へる。
   先生の職人を愛惜する念は並大抵ではない。物ととことんつきあひ、物に心を通はせる職人を大切に思ふ気持は人一倍強い。職人の仕事はごまかしがきかない。寸法を間違へれば使ひものにならない。鋸や飽の使ひ方がまづければ粗悪なものしかできない。
   それに引きかへ、言葉の世界に生きる知識人にはごまかしがきく。書かれた言葉、語られた言葉が正しいか正しくないかの判断は容易につかない。判断の基準も暖昧であり、正誤が判明するのはずっと後になつてからだから、人々の関心は別の事柄に移ってしまってをり、己の言葉に責任をとらされることは滅多にない。先生が気質的に知識人を嫌ふ理由である。
   先生の職人気質は、実生活においては勿論のこと、多くの著作に反映してゐる。律儀さ、義理がたさ、潔癖性、判官びいきなどがそれであり、偽善と感傷を嫌ひ、要領のいい世渡り上手の知識人を嫌ふのも、理窟ではなく、先生の気質に負ふところが大きいと思はれる。
   先生は物を粗末に扱へない質である。「物を惜しむ心」において、自分が長年使ってきた物を惜しみ大切にするのは「けち」からではなく「その物の中に龍められてゐる自分の過去の生活を惜しむ気持であって、吾々はその物を捨てる事によって自分の肉体の一部が傷附けられ切落される痛みを感じる」からだと言ひ、現代人が失った「物の中に人の心を見、通はせるといふ生き方」の大切さを説いてゐる。
   先生の物を惜しむ心は言葉を惜しむ心に通じる。日本人の血肉となってゐる国語を疎かにしていいわけがない。明治以来近代化を急ぐあまり、われわれは多くのものを喪った。わづかに遺された日本固有のものと言へば、自然と歴史と国語しかないと先生は言ふ。だから、先生は名工と言はれる人々が道具を大切にするやうに、何よりも国語を大切にしてきた。それだけに、戦後の小賢しい言葉いぢりにはどうにも我慢がならなかったのであり、言葉を弄ぶ知識人の無責任な態度が許せなかったのである。
   文化や伝統を重んずる人たちの中にさへ、福田氏がどうして仮名づかひにあれほどこだはるのか解らない、ああまでこだはることはなからう、福田氏の評論活動には敬服してゐるが、旧仮名づかひでなくてもいいのではないか、それに、いくら頑張っても旧仮名づかひに戻ることはないだらうに、と言ふ者が少なくない。
   全く先生の生き方を理解してゐない言である。先生にこだはりを棄てよとは、あまりにも心ない言ひ様ではないか。どこまでも言葉に、日本語に、国語問題に、仮名づかひにこだはるところにこそ先生の生き方があるのであって、こだはりを棄てたら、生きることの意味も何もないではないか。肝腎のこだはりを欠いたら、先生の言論は空しいものにならう。先生と他のさかしらな知識人との違ひは、このこだはりのあるなしにあるのではないか。
   時の推移とともに、先生の言論は世間の「常識」になった。多くの人が先生と同じことを言ふやうになった。そこで先生の言論は存在価値を失ったと言ふ人がゐる。が、それは皮相な見方である。
   文化、歴史、文学、芸術、演劇をはじめ、憲法、防衛、国語、教育問題等のどれをとってみても、根本的な解決をみたものは一つもなく、争点がぼかされ、問題が風化し、今や問題意識すら失はれてしまひ、状況はむしろ悪くなってゐるのではないか。
   孤立を惧れず、世間に阿らず、妥協を嫌ひ、感傷を嫌ひ、他人に対してはもとより自分に対しても甘えを許さず、自己満足や自己欺瞞に陥ることなく、物事の本質に迫る先生の文章は決して古くならない。一層新鮮に感じられるものさへある。今こそわれわれは先生の硬質の言論を最も必要としてゐるのではないか。

（『嫌ひは嫌ひ好きは好き』（平成十三年九月刊、私家版）所收。初出は『月曜評論』平成六年十二月二十五日號。本文の著作權は筆者土屋道雄が保有する。無斷轉載を禁ず）