私の國語教室


                                        土 屋  道 雄


   今日の國語國字の混亂の主な原因は、戰後の國語政策にあると考へられるが、その國語政策は、敗戰直後の混亂期に、一部の表音主義に偏向した改革論者によつて立案され、内閣訓令・告示をもつて強行されたものである。
   「猫・杉・岡・奈」等の漢字を使つてはいけないとか(當用漢字表)、「地球・女中」が「地面・世界中」となると「じめん・せかいじゆう」だとか(現代かなづかい)、「道・徳・消・福・毎」*を「道・徳・消・福・毎」と書けとか(字體表)、「お父さん・時計・掃除」を「おとうさん・と計・掃じ」と書けとか(音訓表)、「取締役・番組・受付」等の慣用が固定してゐるものまで「取り締まり役・番組み・受け付け」と書いてもいいとか(送りがなの付け方)、國語は滿身創痍の状態にあり、このまま放置するならば、正しい國語の傳統が破壞され、日本文化の發展が阻害されることは明らかである。
   この『私の國語教室』は昭和三十三年十月から五囘にわたり季刊雜誌『聲』に發表されたもので、sc(恆存)はその第一章において「現代かなづかい」の不合理を徹底的に究明し、そこに見られる多くの矛楯は「原則と内容との矛楯ではなく、原則に内在する矛楯で、それは一つの原則が他のもう一つの原則と同居させられたために起つたこと」であるとし、他のもう一つの原則とは「表記法は音にではなく、語に隨ふべし」といふ歴史的かなづかひの原則にほかならないと述べてゐる。
   次いで第二章において、橋本進吉のかなづかひ論を援用しながら、歴史的かなづかひの原理である「語に隨ふ」といふことを詳しく説明すると共に、表音主義そのものと表音主義者に共通する本質と現象、目的と手段、價値論と發生論との混同を痛烈に批判してゐる。
   また第三章において、歴史的かなづかひの習得はそれほど困難なものではないといふ立場から、その習得法の實際を示してゐる。
   更に第四章において國語音韻の變化について述べ、第五章において國語音韻の特質を明らかにした後、音便の音價とその表記にも言及し、音韻論などといふ暖味なものによらず、音声學にもとづいて綿密に檢討すれば、「おそらく歴史的かなづかひこそ、最も國語音韻に適した安定的な表音かなづかひであることに氣づくはずです」と述べてゐる。
   以上の五章に「國語問題の背景」といふ一章を加へて、昭和三十五年に單行本『私の國語教室』が刊行されたが、右の一章において、scは國語審議會の表音化への陰謀を暴露する一方、漢字の存在理由を明確にし、「一體、日本の近代化はどう遲れてゐるといふのか。遲れてゐるとすれば、國語屋の頭の中くらゐのものでせう」「專門家だけが昔のかなづかひに習熟し、漢字をたくさん勉強して、書齋のなかで古典を樂しんでゐるからといつて、一體そんなことが日本の文化とどういふ關係があるのでせうか。よその國の學者と同樣、何の關係もありますまい。一番大事なことは、專門家も一般大衆も同じ言語組織、同じ文字組織のなかに生きてゐるといふことです。同一の言語感覺、同一の文字感覺をもつてゐるといふことです」と論じてゐる。
   また、言語文字は教育のためにあるのではなく、言語文字のために教育があるのだといふことを強調し、更に改革論者の言語觀に誤りがあること、表音文字化の不可能であることを立證してゐる。
   杉森久英は『私の國語教室』を讀んでゐるうちに「次第に目からウロコが一枚づつ落ちてゆき、連載が終るころには、僕はいつのまにか舊カナ贊成の方に變節してゐた」(昭和三十六年五月『新潮』)と述べてゐる。
   實は筆者も本書によつて歴史的かなづかひの正統性と合理性とを知り、第三章の「習得法」によつて自習したのであるが、歴史的かなづかひは決してむづかしいものではない。
   日本の文化や傳統について眞劍に考へようとすれば、どうしても國語問題にぶつかるはずであり、その際何をおいても讀まねばならぬのが本書である。






*  原文の「道・徳・消・福・毎」は、本漢字體(正漢字體)である。





(つちや・みちを。評論家。學生時代よりsc恆存に師事、防衞大學校土木工學科卒。昭和三十五年から十六年間に亙り、國語問題協議會事務局の主事として活躍し、その後横濱創英短期大學教授を務めた。言葉と國語と漢字に關する著作、また廣い分野の評論多數。名高い作に『sc恆存と戰後の時代』(日本教文社、平成元年)がある。近著に『嫌ひは嫌ひ好きは好き』(平成十三年九月刊、私家版)がある。『私の國語教室』の、全うな紹介文の隨一と評されて然るべき本文は、同書から轉記した(漢字は「本字體」に直した)。本文の著作權は筆者土屋道雄が保有する。無斷轉載を禁ず)