高池 勝彦
半年ほど前に、リリー・クラウスのCDを買つた。シューベルトの即興曲、作品九十と百四十二である。透明で、シューベルト特有の哀調のあるセンチメンタルな、それでゐてあたたかいひびき、すばらしい演奏であつた。一九六七年の録音であるから、彼女が六十四歳のときの録音である。
そのCDに日本語の解説がついてゐる。その解説に氣にかかることが書かれてゐる。中村孝義といふ人である。その一節を引用する(正字正假名になほして引用する)。
よく知られた事實だが、第二次世界大戰中にクラウスはシモン・ゴールトベルグとの演奏旅行の途時(ママ)ジャワで日本軍に捕へられ、三年間の長きにわたつて收容所生活を送るといふ辛酸をなめてゐる。普通なら日本のことを恨みに思つてもをかしくない經驗をしたのだ。しかし人生とは分らないものである。クラウスにとつてはこれが日本に好意を寄せる原因の一つとなつたのだから。といふのは彼女を捕へた日本軍の將校の中に、クラシック音樂を深く理解する人がをり、クラウスを厚遇したのださうだ。中國の「霸王別姫」といふ映畫の中でも、中國に侵攻した日本軍の中に、京劇に深い理解を示した將校がゐた話が出てくるが、日本軍の犯した罪は罪として、當時はおよそ文化などとは無關係と思はれがちな軍人の中にも、高い教養を持つてゐたり、文化に深い理解を示す教養人がゐたのだ。それに比べると昨今の日本の政治家や財界人の教養の低さときたら、何とも齒がゆい思ひがする。
この引用文には「當時はおよそ文化などとは無關係と思はれがちな軍人」などいくつか納得できない部分があるが、とりわけ私がひつかかつたのは「日本軍の犯した罪は罪として」の部分である。
クラウスはハンガリーにブタペストに生まれたユダヤ人で、ウィーンで音樂教育を受けた。ナチスの反ユダヤ政策に逃れようとカソリックに改宗したが、迫害を恐れて家族とともにオランダ領東インド(インドネシア)に移つた。そこで、大東亞戰爭の開戰に伴ひ、敵國人として收容されたのである。これがなぜ「日本軍の犯した罪」なのか。クラウスにとつては不運だつたであらうが、やむをえないことではないのか。開戰に伴ひ、たとへばイギリスにゐた日本人は收容所に收容されたのである。
ここには、日本軍の行つたことはまづ事實關係を調べるまでもなく惡であるとの先入觀がある。これはアメリカ軍の洗腦政策に洗腦されたままの精神状態である。
平成十七年四月十日
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