私の正字正假名體驗



高池 勝彦   





   私は、昭和三十五年高校二年のとき、『私の國語教室』を讀んで、正字正假名が正しいと思ふやうになりました。正假名については、歴史的假名遣と呼んでゐました。
   私は子供のころから、文學少年でしたし、國語の成績が良く、その良い結果としておもしろくない文法もとにかくできるやうでなければならないと考へてゐました。文語文法は理窟のとほりでしたが、口語文法には當時の私には矛盾であると感ぜられる例が多々あり、先生にくひさがりました。ワア行五段活用(現在はアワ行といふらしく、なぜ言ひ方を變へたのでせうか)など、なぜ五十音圖の異つた行にまたがつて活用するのか、など質問して先生を困らせました。特に假名遣については、地面がどうして「ぢめん」ではなく、「じめん」なのか到底納得できませんでした。その頃、『私の國語教室』を讀んだのです。
   やがて、大學に入り、私的な文章はすべて歴史的假名遣としましたが、やがて原則として何の文章でも歴史的假名遣で通しました。大學院へ行き、修士論文(「スウェーデンにおける勞働者の團結權の保證」といふ題でした)も歴史的假名遣で書きました。ただ、辯護士になるために司法試驗を受けるときには、現代假名遣で答案を書きました。
   辯護士になつてからは、私的な文章はもちろん正字正假名、仕事については、當初は原則として現代假名遣、特に依頼者の許可を得た場合は正字正假名としました。所謂いそ辯(勤務辯護士のこと)の後、アメリカに留學し、アメリカと香港の事務所に勤務した後、獨立しました。
   いそ辯のころ、ボスの先生に正字正假名について説明しましたら、なるほど君のいふとほりだと言つて事務所の年賀状は正字正假名となりました。最近その先生からいただく年賀状はどうもまた元に戻つてしまつたやうです。
   獨立してからは、原則として、すべての文章は正假名を使つてゐます。「原則として」といふのは、やはり何らかの事情で依頼者に不利になる可能性があるときは現代假名遣にしてゐるからです。ここ數年前からは正字正假名です。當初、正假名だけで、正字としなかつたのは、單に機械の關係です。昭和五十七年、ワープロを購入しました。仕事の文書は全部ワープロでやるやうになりました。一旦現代假名遣で作成した文書をいちいち正假名に直してゐました。しかし、いちいち漢字をよびだして正字を選擇して直すのはとても煩瑣で原則としてしませんでした。この煩瑣な作業をしたのは、南京事件に關する裁判でした。これは六年かかつた裁判ですが、最初の三年は、煩瑣な作業を繰り返し、正字正假名ですべての訴訟上の文書を作成しました。これは國のためにぜひこの裁判に勝たなければと思つてやり、高裁まで勝訴してゐます。數年前からパソコンを買ひ、有限會社申申閣の社長の市川さんの開發したワープロソフト契冲を導入しましたので、すべて正字正假名となつたわけです。
   裁判所においては、大體において、裁判官も相手の辯護士も何もいひません。氣が附かないこともあるやうです。ときどき相手の辯護士が、先生は難しい字を使ひますねといふことがあります。さらにときどき、裁判官が同じことをいひます。さらにこれは今までの經驗では女性の裁判官だけでしたが、しかも今まで五名ほど、これは難しくて、私はいいけれど、若い裁判官には讀みにくいと苦情をいはれたことがあります。私には讀めないと言つた裁判官もゐました。男の裁判官にはそのやうな苦情をいはれたことはありません。理由を聞かれたことはあります。これは單に偶然なのかどうか分りません。
   また、事件の受付で、直せといはれたこともあります(このときも偶然女性でした)。これは通常の訴状ではなく、假差押の受付でしたが、現代假名遣は單なる目安であり、強制できないはずだ、常用漢字も同樣だとがんばりました。すると敵はくやしさうに、かなり私を待たせた後、ではこれは直さなければ受付けないといつて、當事者目録や本文の中の當事者の名前や住所を指し示しました。たとへば、神奈川縣横濱市緑區何々一丁目二番五號の高池株式會社といふ當事者の場合、縣も濱も區も號もすべて登記簿謄本と違つてゐるから受付けないといふのです。何十箇所も鉛筆でチェックして私に示しました。私は泣く泣くしたがひました。
   このやうな體驗はありますが、私の面の皮が厚くなつたのか、世間が正字正假名に慣れてきた面もあるのか、それほど奇異の目で見られなくなつたやうな氣がします。もちろん、他面、正字正假名への道はだんだん遠くなつてきてゐることは認めなければなりません。





(たかいけ・かつひこ。辯護士。日韓辯護士協議會理事。「昭和の日」推進國民ネットワーク事務總長。國語問題協議會會員(監事)、荒魂之會贊助會員、電腦文字研究會代表委員、「文語の苑」發起人)