法 律 と 國 語


市 川  浩    



      (一)

  法律も國語もづぶの素人の私が、このやうな題で文章を書くこと自體「分際を辨へぬ」所行ですが、高池先生の御許しを得て、掲載して頂き光榮の至りと感謝申上げます。



   最近は法律用語を「やさしく」するとか、テレビでも、「生活笑百科」、「行列の出來る法律相談所」、「ザ・ジャッジ」など法律を扱ふ番組が人氣を呼んでゐますし、兇惡犯罪と少年法の關係など世間の法律に對する關心が高まつてゐます。これ自體は好ましいと言へますが、一方で「何でも法律」、更には「法律に違反しさへしなければ」といふ風潮はやはり日本文化の崩潰に繋がるものとして警戒すべき傾向ではないかと思ふのです。


   我が國の傳統的な生活では、父祖の代からの道徳に從ひ、それは當然法律より嚴しい規範であるため、一般庶民が法律に直接關與することは殆どありませんでした。そこでは「信義」、「誠實」、そして「善意」が重要な要素であり、法律の運用もかうした規範に支へられてゐたと言へませう。江戸時代を通じて、箱根の關は特に嚴重でありましたが、「關所破り」で死罪になつた者は算へる程しか無かつたといひます。


   戰後、隣の子を預つて怪我をさせたといふので、賠償を命ずる判決が出た時、あまりにも杓子定規ではないかと世間が反撥したのはつい最近のことでした。しかし今では「うつかり預つて怪我でもされたら大變」と近所附合ひも稀薄になり、それに附込む犯罪も増加してゐます。スポーツでもイエローカード、レッドカード覺悟で反則を犯してでも相手のゴールを沮止するプレーが公然と行はれてゐます。釋然としませんが法治國家の一面と言へなくもありません。


   しかし、男女雇傭機會均等法で「看護婦」はいけない、「看護師」と言へとなると默過出來ません。勿論、男女に雇傭機會が均等であるべきことに異論がある譯ではありません。その上での所見ですが人間世界は先づ言葉ありきで法律も言葉が無ければ成立たない、つまり法律がその上位概念である「言葉」を規定するのは自己矛楯なのです。しかも更に問題なのはかうした一見尤もらしい言葉の言替へが必然的に「言葉狩」から言語統制への道を開くことで、現にこれまでにも「論語の女子と小人は養ひ難しの章とか、嫁、姦、嫉、妬などの字は女性を侮辱するものだ」といつた議論が定着し、思想としての男女平等主義には批判を許さない、少なくとも批判を躊躇させる雰圍氣が釀成されつつあります。 戰時中軍部が「英語は敵性語」だと言つてアメリカの國技である野球の審判にストライクはヨシ、ボールはダメと言へと強制しましたが、こんな狂氣の沙汰が罷り通つたのは、小學校を「國民學校」、音符を「ドレミ」から「ハニホ」など言葉の言替へを通じての言語統制が下敷になつてゐたと言へます。


   「言替へ」、「言葉狩」は言論思想の統制への入口であるのに、何の警戒も抵抗も無い儘に「看護師」が定着して行くのを見ると、これから復た「言葉狩」が横行する厭な世の中が近づいてくる氣配を感じない譯には參りません。


      (二)

   その源流はやはり昭和二十一年の「現代かなづかい」・「當用漢字」内閣告示を中心とした國語政策に溯ることができます。「現代かなづかい」も「當用漢字」も所詮は人工表記に過ぎず、これを法的拘束力が無いとはいへ、それに準じた「告示」で強制するなど本來あつてはならなかつたのです。果して忽ち實用上の矛楯に直面します。しかし漢字廢止からローマ字化への既定路線を突進むのだと、何が何でもどんな無理でも通さうとして來ました。それがどんなに不條理なものであつたか多くの識者が指摘してゐますが、特に問題にしたいのは、「告示」を絶對視し、その爲には文法構造の崩れ、混ぜ書き、宛字、俗字何でもありといふ價値觀を強制したことです。


   昭和二十七年には更に「公用文作成の要領」といふ内閣閣内通知が出され、「告示」の完全實施のため用語の言替へ、宛字の使用などを全面的に推進する施策が事細かに規定されました。これは法律やお役所の文書のみが對象でありましたが、同三十一年に「同音の漢字による書替へ」として、宛字を博く一般に通行させることになりました。「腐蝕」を「腐食」、「撒水」を「散水」とせよといつた類ですが、その半面「食」を「むしばむ」、「散」を「まく」と訓じてはならず、まして後者を「さつ」の音も禁止と、漢字の用法を全く無視するものでした。ところが新聞はこれに輪を掛けて擴大した「新聞用語集」を作成して宛字の全面普及を圖りました。ここに當用漢字表に有るか無いか、それのみが究極の規範とされ、これを知る者が漢字用法の最高權威となつたのです。


   このやうな事象を日常の言語活動を通じて毎日のやうに見せ附けられれば、當然の歸結として「憲法を頂點とした法律が絶對」、「戰爭は絶對惡」、「人權は絶對不可侵」といつた絶對主義的な考へ方が蔓延して來ます。かうした考へ一つ一つは思想言論としての存在價値があるとはいへ、博く社會に受入れられるまでに必要な長い批判と改善の年月を經ぬ儘、一般國民の意識の中に滲透し手つ取り早い絶對規範として一人歩きしてゐます。


   ところでこれら戰後の國語政策とその發令時期を見ると、奇妙なことに氣が附きます。「現代かなづかい」、「當用漢字」の發令が正統表記の日本國憲法公布の十三日後、「公用文作成の要領」が媾和條約發效の二十四日前です。即ち公布間もない憲法の表記と相反する「告示」、占領から解放される直前に占領政策に沿つた國語改革を徹底する「通知」、これらを竝べて見ると、傳統國語の抹殺が正に日本政府「自らの意思」の表明と解することが出來ます。これを仕組んだのが占領軍なのか日本人の誰なのか、その穿鑿は措くとしても、先年の國旗・國歌法に於て、文語である君が代の詞章「いはほとなりて」を「いわおとなりて」と制定したことからも明らかなやうに、その「意思」は確實に繼承されてをり、その成就は來るべき憲法改正での表記改訂に照準が合はされてゐると見るべきでせう。


   かうした趨勢に知識人はといへば、才能にも惠まれ、特に西洋文化に通曉し、マスコミを通じての表現力も素晴しい人が多いにも拘らず、その殆どは何の抵抗もしないばかりか、今も文語に現代假名遣を潛り込ませたり、混ぜ書きや宛字を自らせつせと勵行してゐる爲體です。


      (三)

   此の人達が好んで口にする「若い人には正漢字や正假名遣は難しいから讀んでもらへない」といふ科白は畢竟「義務教育しか受けなかつた人、從つて教育漢字と現代假名遣しか教はらなかつた人にも讀めることが基本」といふ建前です。しかしこれは學歴差別も甚しいものではないでせうか。義務教育の後直ちに社會に出て實地の勉強をし、書物にも親しんで、そこらの大學卒などより遙かに豐な教養を身に着けた人は幾らでも居るし、またさうなることが期待されてゐます。國民を愚民視し獨り自らの高い教養と學歴を恃む官僚や知識人に日本の文化を委せておいて良いのでせうか。法律文を「やさしく」書き直せば國民の法律理解が進むといつた何とも杜撰な考へ方で、行政による言葉いぢりに迎合してゐては、遂には國語が完全に我が國の歴史と斷絶し、日本人としての自己確認の據り所としての機能を失ひ、氣が附いた時には思想統制の首枷に身動きも出來ず、私たちの子孫に亡國の悲劇を齎すことになり難ねません。


   言靈の幸はふ國の先人は大衆の理解力を無條件に信じて言葉を只管洗煉し、これを通じて民族の心を淨化して來ました。そこには「蒙昧な民衆を指導」するといふ思ひ上つた啓蒙思想の臭は微塵もありません。だからこそ、數多くの古典が人々に讀まれ、世界でも類を見ない民度の高さを實現したと言へませう。かうした營みを通じて練り上げられた國語とその表記法を私たちは次の世代にどうしても傳承しなければなりません。先人達は素讀、平家琵琶、謠曲、歌留多、落語、講釋、そして歌學びと樣々な傳承手段を工夫して言葉を語り繼ぎ、言ひ繼いで來ました。明治以降これらの手段は顧みられることなく失はれてしまひましたが、今日これだけ情報通信手段が發達してゐる中で、私たちは假令學校での國語の時間が減らされようと、それを補つて餘ある教育手段を開發すべきだと思ふのです。


   一方、石井勳先生が見事に證明なさつたやうに言葉の教育は幼少年期が效果的で、それを過ぎると著しく困難となります。その意味で幼少年期に現代假名遣と教育漢字しか學ばなかつた世代には、不幸にも「正漢字や正假名遣が難しい」のは事實です。しかし同じ不幸を次の世代にも負はせるのではなく、石井式漢字教育の原理に基いた正しい國語教育を幼少年に惜しみなく與へ、次の時代の文化を擔ふ完うな日本人を育成することが重要です。その爲には正字・正假名の文書を少しでも多くし、ルビの字音假名遣も含め「讀み先習」で日常目に觸れる環境を整備する必要があります。小中學校の先生や出版編輯者は正字・正假名を假令「難しく」とも職業的義務として習得して頂きたいと思ふのです。


   正字・正假名世代の高齡化、そして改正憲法が新字・新かなになれば、「正字・正假名は憲法違反」といふ謂はれなき攻撃を打破するのに忙殺されることを考へれば、今現在こそ次代の幼少年に正統國語を授け傳へる最後の好機ではないでせうか。




  「まぜ書き」は「交ぜ書き」と書く場合が多いが、「漢字假名交り文」の「交ず」とは根本的に意味が異るため、「混淆」、「混亂」の意味を強調する意味で、本文では「混ぜ書き」と表記




(市川 浩、いちかは・ひろし。國語問題協議會常任理事、「文語の苑」幹事。(有)申申閣代表。平成五年、電腦で作動する假名漢字變換ソフト「契冲」を開發する、爾後何度かの改訂をへて平成十五年九月、字音假名遣對應の新版が完成した。また正かな教科書の名著・山田孝雄監修『假名遣ちかみち』(平成七年、國語問題協議會刊)の復刻出版に協力した。共に申申閣で扱つてゐる。現在入手できる文春文庫版・sc恆存『私の國語教室』では、卷末解説を擔當した。本文の著作權は筆者市川浩が保有する。無斷轉載を禁ず)