最近の歴史觀をめぐる判決について(十二)



辯護士  高池 勝彦    





  前囘まで三囘にわたつて國に二千萬圓の支拂を命じた劉連仁強制連行・強制勞働損害賠償請求訴訟の一審判決について述べた。

  この事件は、韓國人の元慰安婦三人に各三十萬圓、合計九十萬圓支拂を命じた關釜元慰安婦訴訟山口地裁下關支部判決に續いて、いはゆる戰後補償關係で、戰後二度目の損害賠償を認めた判決である。戰後補償を求める訴訟は、全國で數十件にのぼつてをり、その判決の内容にはかなり問題があるとしても、實際に損害賠償を認めたものは關釜訴訟まではなかつたのである。關釜訴訟以後いくつかの損害賠償を認めた判決が出るやうになつてきたのである。今囘は劉連仁事件判決の約一ヶ月後に出された浮島丸事件(注一)について述べる。



浮島丸事件京都地裁判決

(1)事案の概要

  昭和二十年八月の終戰時、青森縣大湊地區には、海軍の大湊警備府がおかれ、北海道、千島、南樺太等の津輕海峽以北の防衞任務を負はされてゐた。そのため、大湊地區には大規模な防空壕、地下倉庫、飛行場、鐵道の建設等のために、數千名に及ぶ朝鮮人軍屬、勞務者(徴用工)などが居住してゐた。

  その多くは、大湊海軍施設部の徴用工員(軍屬)であり、その他相當數の民間會社の徴用工がをり、一部に自らの意思で日本本土に移住してきた朝鮮人及びその家族がゐた。

  敗戰直後の大湊は、警備府の一部の軍人が徹底抗戰を主張する檄文を飛行機からまいたり、軍事物資の放出を求めて市民が殺到する等の混亂状態にあり、一方、朝鮮人らは、日本の敗戰と自らの解放を喜び、町では「マンセー」(萬歳)といふ喚聲も聞えた。

  浮島丸は四千三百二十一總トンの貨客船で、昭和十二年三月に竣工し、大阪商船が所有し、南西諸島航路に用ゐられてゐたが、海軍に徴用され、特設砲艦として改裝され、終戰直前には青函聯絡船の代替船として青函航路に就航してゐた。このころの、旅客最大搭載人員數は一千三百名、乘組員數は百五十名であつた。浮島丸の出港のいきさつ、その後の航海、沈沒に至る經緯は、判決によれば次のとほりである。



  浮島丸は、八月一八日、大湊に帰港し、同月一九日ころ、海軍運輸本部の了承を得た大湊警備府から、朝鮮人徴用工等を乗船させて釜山まで運行することを命じられた。浮島丸の乗組員の間では、終戦によって復員できると考えていたところにこの命令を受け、航海には触雷の危険を伴うことや、燃料が十分でない、朝鮮にはソビエト連邦(略)軍が攻め込み、捕虜になるかもしれない等のうわさも流れたことから、下士官らを中心に出港に反対する機運が高まった。また、浮島丸の艦長である鳥海金吾中佐(略)も、大湊警備府に対し、出張が無理である旨申し出たが、警備府の了承するところとならず、同月二一日ころには、大湊警備府の参謀が浮島丸に出かけ、乗組員を集合させ、威嚇、説得までした。

  八月一九日ころから、大湊周辺の朝鮮人民間徴用工には、雇用先から、浮島丸に乗船するよう指示されたが、その中には、浮島丸で朝鮮に帰らなければ、今後は配給は受けられないとか、その後は帰国船は出ないなどと言われた者もいた。一般在住朝鮮人にも同様の話が伝えられ、徴用軍属に対しても浮島丸に乗船するよう指示がされた。同月二〇日ころから、乗船が開始され、いったん中断した後、同月二二日、乗船が再開され、浮島丸は同日午後一〇時ころ出港した。

(中略)

  ところで、八月二〇日、マニラに派遣されていた日本政府使節団は、連合国最高司令部から、わが国に属し、又は支配下にある一切の艦船で日本の領海内にあるものは、現に航行中の航海以外に一切移動しないとの内容を含む要求事項を受け取っており、これを受けて、軍令部総長は、同月二一日、連合艦隊、各鎮守府等の司令長官に対し、同月二四日一八時以降、特に定めるもののほか、航行中以外の艦船の航行を禁止するなどの命令(大海令五二号)を発し、更に、同月二二日、「八月二四日以降、現ニ航海中ノモノノ外、艦船ノ航行ヲ禁止ス」との指示をした(大海指五三三号)。また、海軍運輸本部長は、浮島丸等の艦長に対し、同月二二日午後七時二〇分、上記大海指五三三号と同内容を指示する至急電報を発し、さらに同日、八月二四日一八時までに目的港に到達するよう努力すること、到達の見込みのないものは最寄の軍港又は港湾に入港することを命ずる緊急電報を発した(略)。これらの電報は、大湊警備府等にも通報されている。

  浮島丸は、出港後、本州の沿岸に沿って南西に進み、同月二四日午後五時ころ、舞鶴湾内に入り、同日午後五時二〇分ころ、下佐波賀沖に差し掛かったところ、突然船底付近で爆発が起こり、沈没した。

  沈沒のとき、浮島丸に乘船してゐたのは、乘組員二百五十五名、朝鮮人三千七百三十五名(徴用工二千八百三十八名、民間人八百九十七名)、死亡者は、乘組員が二十五名、乘客が五百二十四名であつた。沈沒の原因について、被告國は米軍の機雷との接觸であるとしてゐる。 沈沒後、海岸に打上げられた遺體は舞鶴海兵團の敷地に假埋葬された。その後國は、昭和二十四年四月ころ、これを發掘して火葬に附した後、舞鶴地方復員局の靈安室に安置した。その後船體の第一次引揚作業及び第二次引揚作業の際に収骨された遺骨も同樣に同じ場所に安置されてゐた。その後、これらの遺骨は、昭和三十年一月、呉地方復員局に、ついで昭和三十三年に厚生省引揚援護局に移され、昭和四十六年に、東京都目黒區所在の祐天寺に預けられた。昭和四十六年十一月、昭和四十九年十二月及び昭和五十一年十月に遺骨の一部が外務省を通じて大韓民國に返還されたが、なほ、二百八十柱とされる遺骨が祐天寺に殘されてゐる。

  本件訴訟において、この浮島丸沈沒による、韓國在住の生存者十五名と死亡した乘船者の遺族八十名が、國に對し、公式陳謝・遺骨の返還と總額三十億圓の損害賠償を請求したのである。



(2)原告側の法的主張

  @國の道義的國家たるべき義務

  これは關釜事件一審判決の論評の際述べた(注二)。カイロ宣言とポツダム宣言とが我が國憲法の根本規範であるとの主張も同じである。

  關釜事件の原告の主張にはなかつたのは、憲法の前文に「日本國民は、恆久の平和を念願し、人間相互の關係を支配する崇高な理想を深く自覺するのであつて、平和を愛する諸國民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」あるのを利用したことである。

  原告の主張はかうである。憲法は、第九條で、戰爭放棄、戰力の不保持といふ不作爲を命じただけではなく、「平和を愛する諸國民との信頼關係の構築」といふ作爲を命じた。「平和を愛する諸國民」とは、日本の植民地支配と侵略戰爭の被害者にほかならず、その作爲の内容としては、少なくとも、侵略戰爭と植民地支配に對する謝罪と賠償が含まれてゐることが條理上明らかである。この作爲義務が「道義的國家たる義務」であり、その名宛人は、立法府、行政府のみならず司法府も含まれるから裁判所は、謝罪と賠償のための立法が缺けてゐても、國家賠償法を類推適用して損害賠償を認めるべきである。

  これはあきれた主張である。この文脈では、韓國や北朝鮮、中國は「日本の植民地支配と侵略戰爭の被害者」といふことになるであらうから、これらの諸國は「平和を愛する諸國」といふことになる。韓國は竹島を不法占據し、中國はアジアの霸權國家たらんとして急激な軍備増強に走つてゐる。北朝鮮が平和を愛する國家であると思ふ者は同國の代理人や代辯者以外にはゐないであらう。憲法がいつてゐるのは、「平和を愛する諸國」ではなく、「平和を愛する諸國民」なのだから、中國が軍國主義國家であつても中國人は「平和を愛する」のだといふのかもしれないが、それなら我が國も含め、世界中同じである。

  辯護士である原告等の代理人等が、原告等勝訴のためにあらゆる理由附を考へるのは當然でもあることは、私も同業者として理解できる。しかし、これはあまりに牽強附會に過ぎる。もつとも、中學校の社會科教科書には、「世界に対する罪」の小見出しの下に次のやうな記述があるといふから、そのやうな教育で洗腦された代理人等がこの論理を考へついたのも當然かもしれない。



  日本軍は、アジアの国々の、兵士ばかりか、多くの民衆の生命をうばい、国土を荒し、文化財をこわした。そのために、東亜の各国はいまでも侵略の災害を回復するために、苦しんでいる。軍国日本は、世界の民衆に対して大きな罪を犯した。この罪をつぐなうためには、過去の侵略主義をすて、平和のためにできるだけの手伝いをしなくてはならない。(注三)



  A明治憲法第二十七條又は憲法第二十九條の類推適用(注四)

  これも關釜事件一審判決の論評の際述べた(注五)

  これは個人の財産權を保障した規定であるが、明治憲法には明文の補償規定がなかつた。しかし、正義と公平の觀點から補償が必要な場合は、損失補償が認められる。

  B安全配慮義務違反に基く損害賠償請求

  これは、劉連仁事件の論評で既に述べた(注六)

  C立法不作爲に基く損害賠償請求

  これも關釜事件一審判決の論評の際述べた(注七)



(3)裁判所の判斷

  @については、憲法前文は、具體的な權利を規定したものではない。憲法はポツダム宣言を踏へて制定されたものであるが、「個別具体的な義務を被告に課していると解することはできない」。

  Aについては、具體的な損失を補償する法律がないので、直接明治憲法に基いて損失補償請求はできないし、現行憲法では直接請求が認められる場合があるが、憲法施行以前の事件については適用できない。

  Cについては、立法しなかつたことが、憲法の一義的な文言に違反するとはいへない。

そして、Bについて、裁判所は次のやうな、思ひきつた判斷をして、生存者の原告十五名に對する國の安全配慮義務違反を認め、各三百萬圓合計四千五百萬圓の賠償を認めた。

  安全配慮義務を認めるには、本誌四月號で述べたやうに、國との間に特別の關係がなければならないとするのが、最高裁の立場である。本件で裁判所は、生存者の原告と國との間に、私法上の旅客運送契約に類似した法律關係が成立したと判斷した。その法律關係によれば、「原告らに対し、釜山港又はその近辺の朝鮮の港まで安全に運送する義務、朝鮮の港まで到達することが不可能な場合には、安全に最寄りの港まで運送し、又は出発港に還送すべき義務を負ったというべきである。」この義務は、その法律関係に「基づく本来的な義務であって、付随的なものではないから、係る義務の違反を理由とする損害賠償を請求する者は、それ以上に具体的な義務の内容を主張立証する必要はなく、被告において義務を履行し得なかったものであることを主張立証しなければ損害賠償責任を免れることはできない。」

  國は、艦長が浮島丸を舞鶴港に入港させようとしたのは、大海令五十二號に基く指令に從つたもので、艦長としては他にとる方法がなく、触雷は不可抗力であると主張したが、裁判所は次のやうな理由で認めなかつた。



  昭和二十年八月當時、アメリカ軍が本州及び九州の日本海沿岸や瀬戸内海沿岸の軍港及び主要港灣に多數の機雷を敷設してをり、危險な状況にあつたことが、大湊港にはアメリカ軍の機雷は敷設されてゐなかつた。艦長及び大湊警備府司令官はこの事實を知つてゐたものと推認される。

  前述のとほり、海軍運輸本部は、艦長に對して、昭和二十年八月二十二日午後十時の出港前後に、二十四日午後六時までに目的地に到達するやう努め、見込がない場合には、最寄の軍港又は港灣に入港することを命じてゐる。

  浮島丸の航海速力は、當初よりかなり遲くなつてをり、この速力では、大湊港を八月二十二日午後十時ころ出港したのであるから、同月二十四日午後六時までに釜山に到達することは事實上不可能であつた。このことも、艦長や司令官も理解してゐたと推認できる。

  さうすると、艦長は、出港を見合せるか、安全な大湊港に戻るかすることも可能であつたし、艦長としては、このやうな選擇が難しかつたとしても、司令官がこのやうな命令をすることはできたはずである。それなのに、釜山に到達できる見込もないのに、本州沿岸を南下し續け、司令官も浮島丸がそのやうに航海するのに委せた結果、舞鶴港に入港することになり、爆沈することになつたのであるから、爆沈が不可抗力であるとはいへない。



  なほ、裁判所は、國の原告等を含む多數の朝鮮人に多大な犧牲を被らせたことに對する公式陳謝請求や、原告等の一部の國に對する遺骨の返還請求は認めなかつた。



  乘船朝鮮人と國との間で運送契約類似の法律關係が成立したとの論理は、工夫したものではあるが、かなり無理がある。現在では國家賠償法により、このやうな場合には補償が認められるが、當時の状況では無理ではないかと思ふ。

  この結論こそがこの判決においてもつとも重要な點であるが、それ以外の點においては、この判決は文章も論理も結論から想像されるのとは異り、餘計な歴史認識も述べず、きはめて穩當である。

  この判決を掲載した判例時報の解説において、朝鮮人が「強制労働に従事し」と述べてゐるが、判決では、そのやうな文言はない。

  その他の點においても、原告等の請求を棄却する論理も簡潔明瞭である。



  新聞報道によると、五月三十日、大阪高裁は、原告側の全ての請求を棄却したとのことである(注八)



注一 京都地裁平成十三年八月二十三日民事第一部判決、判例時報一七七二號百二十一頁。

注二 本誌平成十四年十二月號二十六頁。

注三 中教出版昭和二十七から三十一年度版中學校社會科教科書。小山常実『日本国憲法無効論』平成十四年十一月十五日草思社發行三十四頁から孫引。もつとも私は、昭和三十年から三十三年に中學生であつたが、社會科の教科書がこんなひどかつたのかどうか覺えてゐない。中教出版ではなかつたのかもしれない。

注四 大日本帝國憲法第二十七條日本臣民ハ其ノ所有權ヲ侵サルヽコトナシ 公益ノ爲必要ナル處分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル 日本國憲法第二十九條 財産權は、これを侵してはならない。 財産權の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。 私有財産は、正當な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。

注五 本誌平成十四年十二月號二十七頁。

注六 本誌平成十五年四月號二十二頁。

注七 本誌平成十五年一月號二十四頁。

注八 平成十五年五月三十一日産經新聞によると、大阪高裁は、京都地裁が認定した乘船朝鮮人と國との間の運送契約類似の法律關係を否定し、運行は權力作用であると判斷したとのことである。




辯護士  高池勝彦